2013年12月5日木曜日

The Builder of Conceptual Castle

首記テーマで書いていきたい。まずは不満から。パソコンが3つになってどこでかくのか決まっていない。それぞれ指の感触が違うから。

それから、日常を織り込んでいく。

目の前の窓にはブラインドが降りている。その向こうには冬のキャンパスがある。

英語学会からもだいぶん立ってしまった。先週末、ことば工学研究会がうちの大学で開催された。

2013年11月4日月曜日

リトールド

鬼を主役にした桃太郎のリトールドというのはあるのだろうか。キジは?おじいさんは?おばあさんは?鬼ヶ島は?お姫様は?お殿様は?

お姫様が桃太郎のこと、好きじゃなかったらどうだろう。

『小さな恋いのメロディ』 小考

『小さな恋のメロディ』のDVDを数年前に買っていて、それを数ヶ月前に見て、中学校の頃を思って感動した。小学生の少年と少女が駆け落ちをする話で、主人公のメロディとダニーが愛らしい。

 文脈主義について考えていて、文脈がフレームで構成されている、という考え方は、小説にも使えますね、例えば、『小さな恋のメロディ』という映画は...なんていう文脈で思い出したのだ。そう、この映画を四半世紀(ごめん、サバ読んだ)たった今見た新しい感想は、ああ、小学校フレームが十全に記述されているな、ということであった。朝礼、授業、理科室、音楽室、登校、下校、近所の秘密の隠れ家、全校集会などなど、小学校にまつわるエトセトラが逐一、順序よく登場する。ああ、みんなが知っている知識をベタに記述するだけでストーリーのいい出汁がでますね、いい骨格になりますね、ということを考えた。舞台がロンドンのパブリックスクールなので、朝礼を段差のついたシンフォニーホールみたいな大きな講堂でやるとか、生徒の制服とか、墓地のお墓の形が違うとか、文化差にも気づいてなかなか楽しいのだ。

 授業でバレエのレッスンを受けているところをのぞき見する場面ではメロディの顔が大写しになって、ダニーの主観的視点がよく捉えられていた。

 娘をトイレに連れていって眠れなくなった私は仕事のことを考えはじめ、冒頭の文脈主義の話から、この映画に思い至ったのだが、今、新しく気づいたことがある。メロディは登場の場面で金魚の小さな瓶に頬を寄せるようにして高く上げて眺めている。それは彼女が鐘を鳴らしてくる古物商に母のコートと引き替えにもらったものだ。そして、それは、一回目、自分の小物を持っていってオマケのような小さなものしかもらえず、あれが欲しいと指さして、あれはこんなんじゃだめだね、と古物商に言われて、家に取りに帰って母に無断で洋服掛けに並ぶものの中から無差別に持ち去ったコートが代償である。

 ずっと、無邪気な女の子としか思ってこなかった。金魚が欲しくてたまらない女の子。ビージーズのメロディフェア(ビージーズがトラボルタを生んだヒット映画『サタディ・ナイト・フィーバー』で再ブレークする前である)という曲に乗って街角の貯水に瓶から金魚を泳がせる優しい女の子。

 しかし、まあ、考えてみれば、母のものとはいえ、そして未成年とはいえ、人のコートを勝手に売り払ってしまうというのは犯罪ではなかろうか。交換の価値からすれば金魚とコートでは明らかにコートの法が大幅に上であろう。後先考えない女。欲望を我慢できない女。目的のためには手段を選ばない女。かわいらしくて、ほとんど自分の意見らしきものを話さないメロディの裏側にある意外な行動力に今回気づいたのであった。

 仲間の媒酌によって二人は結婚し、トロッコに乗って街に逃避行するのだが、これは原作者アラン・パーカーの実話から取られたと翻訳書の後書きに書かれていたはずである。二人きりで生活し始めて、結構苦労したんじゃないかな~アラン・パーカー。

 アラン・パーカーについてはまた後日。

2013年10月23日水曜日

alive and kicking

http://www.phrases.org.uk/meanings/alive-and-kicking.html

http://www.etymonline.com/index.php?term=alive

なんだっけ、red herring の語源といった話もあった(どこぞに書いたが未出版)。イディオム研究というのはこれから重要になると思うし、その際には語源は重要な要素だと思う。

ネィティヴとノンネィティヴを区分するのにも重要な役割を果たしそう。

この2つの説明では後者の方が私の直観に合うのだが。

あと、このブログの使用法が不明になっているのだが、ともかく書こうと。

2013年10月21日月曜日

TAKATSUKI

 コンクリートの打ちっ放しの広い場所にいた。階段も一段が大きい。僕は大阪からその乗り合い場にいて、TAKATSUKI行きのチケットを持っていた。朝早い。東京に着いて、そこから乗り継ぐのだ。TAKATSUKIは東京のどこかのはずだった。船着き場がどこかにあるはずだった。府中かそちらの西側の方かもしれない。
 ふと、これは大阪の高槻のことではないか、と思いあったった。高槻に行きたいわけではなかった。誰かに聞かなければならなかった。古びた木造の構内で係を探す。半開きになった窓口には誰もいないようだった。古びた木枠で頑丈そうな鉄の枠の窓がほとんど下まで下げられているところに、印字のB5くらいもあろうかという切符らしき大きなものをすべりこませる。左側から来たおばさんに譲るべきか考えてこちらの方が早い、と開き直って。これは高槻ですね~と駅員はいう。どうも大阪からでるときに間違ったチケットを買ってしまったようなのだ。まだ薄暗い波止場のことを考えながら途方に暮れた。

2013年9月30日月曜日

residual issues

何かを思った時、その言葉がでてきて、それがぴったりということがある。標題はそれではなく、別のよく似た語を思いついたのだがそれがもう思い出せなくなっている。

夜中に子どもの世話で起きてうつらうつらしていた。車を変えた。その前にレンタカーに3日間乗っていた。小学校に入る前、新しい家に引っ越した大叔母の家のことを思い出した。青い空に白い洗濯物が舞っていた。母に連れられていった借家だ。細面の家系で曾祖母も大叔母も母も細い。大叔母の家は呉服屋でお金持ちだった。実家の番頭さんと結婚したのが大叔父だったようだ。それが狭い庭の古い借家に住んでいる。何かあったのかと思ってドキドキした。
 家が道路の拡張に引っかかったのでそれを機会に新築した、新しい家ができるまでというのがその理由だったらしい。
 新築の家はヒノキのにおいがして心地よかった。昔の家の向きを変えて立て直した(つまり、ブロックの家を動かすように場所と向きを変えて、必要な箇所だけ化粧直しをした)、と聞いた気がするのだが、どのようにそれが可能か、信じられないし、本当かどうか今ではわかるすべもない。
 僕はいつの間にか木の前に立っていた。松の木だ。その幹は両手を回しても回りきらないくらいだ。見上げるような大きな存在だ。上述の引っ越しの頃と同じ頃、我が家の端っこの石垣の上に立っていた小さな細い木がそれになったようだった。
 その感慨は、金木犀の木を実家の庭に見たときのものだ。小学校に入った記念に植えたそれは、僕の身長を遙かに超え、見上げる果てには力強い白い雲と何もない青空が広がっていた。
 そして、金木犀の香りは僕に鎌倉を思い出させる・・・ そんな風に連想は絶えることがない・・・
 そんなことをしているうちにもう眠れなくなってしまった。

2013年9月7日土曜日

ソーラン

ソーラン節のソーランの語源が、モンゴル語のソロンゴだという記述をどこかで見た気がするのだが見つからない。