2012年8月31日金曜日

79.4kg

白い壁が続いている。朝陽がオレンジ色の木漏れ日を落としている。サングラスをかけているからか、と気づく。

シャンペンをボトル1つ空け、クッキーを寝る前に2枚食べたので、今日はやばいと思っていた。

石橋駅からキャンパスまでの坂を登った。2年以上ぶりだろうか、最初にここにきたのは29のときだった。たくさんのごたごたを乗り越えての新しい生活だった。僕は多分、事情を所与としてかんがえてしまいすぎるきらいがあるのだろう、と今思う。いろいろなことを考えると、アメリカに行くことが望ましく、そのためにはここにいくのは必須なのだった。(29のときの話)

松本先生の勉強会では西光先生、秋田さん、せつさん? 森下君がいた。あと、ひさしぶりにアリーがいた。元気そうだった。メタファー。イメージスキーマ、構造性、共起性、関係、距離、接触、糸、紐、つながりといった話。

あ~最初の質問にも考えさせられましたね。「理論が崩れる」という用例を用いて、プライマリー・メタファー理論と身体性メタファー理論の違いを説明してください。私の代わりに答えてくれる人、いますか?

2012年8月30日木曜日

いまこそいま

いまこそいま といってわかる人がどれだけいるだろうか。
「別に会う必要なんてない」といってピンと来る人がどれだけいるだろうか。
「今まで生きてきた中で一番幸せです」は?
「言葉にならねぇ」は?

構文文法というのはこういうものにも関わる。前二者は全体の一部だけをとっているので、

構文クリッピング(構文短縮)

とでも呼べるだろう。後二者はシグニチャと呼べる現象の一部とも考えられる。その人の名前がスタンプのように押されている発言である。


2012年8月29日水曜日

79.6kg


月曜日、今日とテニスをしている。体力を維持しながら、仕事をする算段だ。今日の体重の推移がすごい。

午前1時 81.5kg
午前7  80.6kg
テニス後 80.1kg
サウナ後 79.6kg

8時間の間に約2キロ減ってる.... 

冷たい熱帯魚を見た。圧巻だ。途中で切らざるを得なかった。今の仕事が終わったらゆっくりDVDを大量に見たい...(死亡フラッグがでてる...泣)

8/25土には京都大学の山梨研究室で毎月行っているKLC(京都言語コロキアム)の年次大会KLCAMKLC Annual Meeting, KL CAM 来るカム)で発表をさせていただいた。メタファーと身体性の話にメンタルスペース/融合理論を組み合わせた身体性メタファー理論の話だ。お聞きいただいた皆様、ありがとうございました。

ここ、2日ほど、認知言語学会のワークショップのことでディスカッションを続けている。ここに、ちょっとプログラムから引用しておきますね。


ワークショップ 
日時 9/8()10:00-12:20 
場所 大東文化大学 第4室 3号館0114
<テーマ>
認知言語学とメタファー研究の産業的応用―事例から見るその潜在力と展望―
    鍋島弘治朗(関西大学)・水口洋二(サントリー)・望月理香(NTTサイバーソリューション研究所)・<司会>荒川洋平(東京外国語大学)



2012年8月25日土曜日

80.8kg

どうもよくない。どこかで脂肪を蓄えるスイッチを押してしまったのではないかと考えている。運動をした木曜日と連動しているのでそれが原因かと最初思っていたが、ちょっと腑におちない。その前の二日くらい、昼飯をキャロット1本で済ませたことがあってそのあたりが原因かもしれない。

2012年8月24日金曜日

80.5kg

昨日もいい一日だった気がするが減っていない。

朝ごはん なんだっけ?
昼ごはん なんだっけ?
夜ごはん カツコロッケ これがちょっと重いか。

そうそう、昼ごはんはほとんど食べずに、人参を1本蒸かしただけだった。
その代わり、そばの一束(335kcal)の2/3くらいをそのまま食べた。

朝ごはんは...カレー。
そうそう、昼ごはんにはその残りの玄米ブレンド白米を小さなおにぎりにして
食べもしたっけ。

動いていない。ほとんどといって動いていない。
except for カラコレのリズムを脚で取りながら歌いながら歩く。

家から杜仲茶を職場にもってきて、それをがぶ飲みしているので
もう少し下がっていると思ったのだが。

ひとつには、一昨日(水曜日)テニスをして筋肉が付き、食欲が上がったのも影響しているだろう。
こういう切り替え時は微妙なんだよね。

切り替え時という点では本書きをしているべきなところ、
カラコレのレッスンが日曜日にあり、明日土曜日にはKLCAMで京都大学で発表があるのでそれが錯綜してうまくいかない状態に昨日から入りつつある。
プロセスが錯綜すると本当に効率がダウンする。

関連してルーチンとプロジェクトについて考えている。
ルーチンとは定常業務、プロジェクトとは新規業務である。
ルーチンとは意味のない仕事、というか、何のためにするかを考えない仕事だ。

この話はTheory of Automatization/ Automaticity に関わる。
http://en.wikipedia.org/wiki/Automaticity
http://miguelbengoa.com/elt/?p=703
http://psych.wisc.edu/ugstudies/psych733/logan_1988.pdf Gordon D. Logan

自動化理論というものがあるのだが、私は心理学の人間ではないのでわからないが、
これがあまり定着していないように思えるがどうしてなんだろう。あまりに大きなものを取り扱いすぎているんだろうな。でも身体性研究の普及とともに復活するか、同じような研究が別の名前でなされる必要があるだろうな。

で、ルーチンとはオートマチックな(なんてノスタルジックな呼称!)行為のこと。オートマチックなことがロマンチックであることは宇多田ヒカルが喝破してるわけだがそしてそれはタナトスと関係あるわけだが、ルーチンというアンロマンチックなものにもその一抹の要素があるわけで。

何を言ってるかわからなくなってきた。

ともかく、ルーチンとは、オートマチック、すなわち、「反復からなる無意識化、高速化、脱手順化」だったと思う。つまり考えない、つまり意味がないカプセル化されたプロセス。

僕は今長い眼で見ると、2007年にフランスに1年いたときに意図的にすべて捨て去ってしまったルーチンを少しずつ復活させようという過程にいるわけで。

ファイルを右から左に流すといった作業を思い出しつつやってみたりしてる。

ルーチンがすでに脱ルーチン化しているので、やっている途中でドンドン脱線する。それも試行錯誤の1つか。

そんなこんなで4つ(本、KLCAM、カンテ、再ルーチン化)の流れが錯綜して(これにアメフトに関するルーチンやらが入り)混乱状態である。

夏も悠々と老いつつある。

老いつつあると、8/6から考えているからすでに老境に入りつつある夏。

ともかく今日はKLCAM一本で。

2012年8月23日木曜日

80.2kg

81.2 から昨日朝テニスをやって→ 80.6 ときてここに至る。ほぼ4ヶ月ぶりの運動。気持ちがいい。

テニスでビュー(view)について考える。


コーチ 「最初にいったけど、ロブが少ないです。ロブがないとわかっていると、相手は前に出てくるから余計に大変になります。逆に前に出ているときには、ロブを上げると対応できないので効果的です。」


ロブ=ふんわりと高く、後ろに上げる球。


最近、主観性とフレームについて(あいかわらず)考えている。


私の武器はメタファーなので、この場では、なりきりというか、擬人的視点投射を用いたい。

で、相手の立場に立ってみる。

***
自分は前にきて(ボレーする、前衛の位置に)いる。

相手の球を何度か返して、球を前で叩くプレーを繰り返している。

その間にじりじり位置が前になっていく。

視界が前に集中し、後ろに対する注意が減少し、後ろの見えない部分が広がり、エンドラインとの距離もわからない状態。
***

フォーカスされている分前で取れる「ゾーン」が小さくなっている。

これ踏まえて、その「ゾーン」を外した球を打つと有効だし、その重要な1つがその「ゾーン」の面を外して壁を越えるように上に上げるロブということになる。


今、***で囲まれた部分が相手のビューの生成。視点を転換して相手の身体イメージを作っている。

これと、「相手が前にでたときにはロブをあげる」という命題形式のアドバイスとはほぼ等価である。

というか、この命題形式のアドバイスがあるから相手の視点の生成を考えたわけだし。

しかし、相手の視点を生成することに意味がないわけではない。ロブの上げ方にもいろいろあろうし、具体的にどこに上げるのが効果的かなど、知覚的推論も生成できる。なにより、コーチがいなくてもどうすべきか指針ができる!のである。

ということで、両者は補完的であると考える。

自分のビュー、相手のビュー、そしてそれらを踏まえた外部視点的なビューが示唆するところが合致して初めて、命題の受肉が完成するのである。

受肉に関してはまたいずれ。

(と、ネタを先にふる)

2012年8月20日月曜日

noise

カラコレを聞くのに過去のブログを見た。にいちゃんの歌を確認してから、バレエ団の方を聞こうかと思って消した。ノイズが耳元に残っている。録音ごとにノイズが違う。ノイズは現実との距離や種類を表しているのではないか、とふと思う。

J. J. Gibsonが現実感について話している部分がある。ギブソンは絵画や写真はいくら上手でも現実と違うことははっきりと認識できると述べている。それは特定の視点からだからだ。特定の視点をとったものにはその視点にまつわる「ノイズ」パターンがかかる。そのノイズは現在の視点から見るノイズと異なるのだろう。

そのように、メディアや年代、録音状態によって音(写真)はノイズに履歴/スペース を刻んでいる。


ギブソンによれば現実感を区切るものは(少なくとも)もう1つあって,当然のことながら、文脈の問題,すなわち、絵画や写真はどこかで終り、そこから不連続的に異なる世界が始まるー縁(ふち)ーが存在するということだ。

そして

ある空間での拡張をどこかで切り取る作用(縁)がメトニミー
ある空間を横断的になんらかの視点で切り取る作用(ノイズ)がメタファー

に対応するのか、だから、メタファーは視点に依存するのか、と思い至ったわけである。


noiseに関しては

tune in
tune out

という概念が個人語としてある。こちらは次のお題に。