2013年7月3日水曜日

市場の続く方向

 四日市に訪れるという人がいる。どこか観光にいいところをないか、という。あそこは、なんにもないですねぇ、と答えたが、出身地ながらややもの悲しい気がする。
 仕事をしながら、僕の夢には方向性があることを思い浮かべていた。そういえば、父方の祖母がよく買い物をしていた市場はまだ、開かれているのだろうか。四日市にはその名前の通り、四のつく日に市が立っていたのだ。父の実家である八幡町のそばには、三滝川という二級河川がある。背の曲がった祖母は乳母車を引いて海に注ぎ込む手前の幅広くなった土手に長々と続く市によく買い物にいっていた。私たちが訪れるときは、父の大好物だといって、まだ生きているシャコを大量に買い入れてくる。それを塩ゆでにする。ほんのりとした薄紫とはうらはらな棘皮のような皮で指を刺さないようにしながら甲殻を剥くと、オレンジ色の卵が入っているときがある。ほんの小指ほどのそれの美しい色合いとコリコリとした食感を楽しんだ。
 自分がその市にいったことはほとんどない。たまに祖父母の家に親戚が集まって泊まったときに、数回、行っただけだと思う。何より、朝が早いのだ。いつもは見上げているその土手の上を祖母や従姉妹の後ろを歩いていた時の記憶を思い出した。日よけのテントが並び、その間を客が列をなして行き来する。あちこちから来た行商の海の幸や野菜と果物。日に焼けた皺だらけの老人たちの卑屈な笑み。そして、果てしなく遠い青空。
 数ヶ月前に見た夢のことを思い出していた。火口から続く長い下り坂が左から右に続き、いくつもの大きな石がだんだん小さくなってきたところから市場が始まっていた。僕はその道を降りてきて(つまり、その風景を認識している自分と、その風景の中で移動している自分の二人がいてふたつの方向軸がある!)ふたつに分かれる道を僕はテントに覆われた薄暗い左側の側道に入る。そこにはいくつもの異なる形の壺のようなものが砂地に低く置かれているが、壺を売っているのか、それとも、中にいる何かを売っているかわからない。

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