2014年7月10日木曜日

系は

緩やかに捻じれ

解け

再び組みあがる


繭のように。青虫が蝶になるように。


そういったことを思いついたのは自転車に乗っていた時だ。

河畔を走る2

川は室山から西日野に向かって次第に汚れが消えていく。僕はそれを逆向きに走っている。その深みでは、巨大な黒い鯉が行きかう。いつかその水面に浮かぶ緑と橋と信号と、青空と白い雲の間を太陽を乱反射して走る自動車の世界が本当にあると信じていた。

それを反転させ、現実の光と結び合わせてみる。幻想が沈み、退屈が浮かび上がる。

昼下がりの河畔を走る

棘のような鋭角を持った葉はそれぞれ、太陽を反射して真っ白な線に縁どられる。それを押し延べた緑の陰影。それはホテイのような丸い葉や、オリーブのような小さな葉にも続いている。

2014年7月9日水曜日

目を伏せる(行きかう時に)

自分が相手を認識していることを気づかれぬように目を伏せている。気づかれれば、こちらが相手の動きに合わせてくれると思わせるといやだから。

消失点

消失点とは不思議な概念だ。無限の世界がゼロに収束する。ゼロを視野に無限に敷き詰めて世界が出来上がる。

合流

名神のハーフドームのカーブで消失する線が
並行して傾きながら駆け上げる側道の白線と
一つの線に結ばれるのが
この風景が
美しい
理由

2014年7月2日水曜日

秋元先生の授業から 映画用語

establishing shot

ここからは、映画館のシーンですよ、という場面設定のために、映画館の全体像大写しにするなど、設定を明らかにするショットをそのように呼ぶとのこと。

フレーム導入表現だね


モンタージュ

切り替えしショット(ショットとリバースショット)

2014年6月29日日曜日

6/29

電池の残る限りこちらでつぶやくか。ほとんどないが。
今日は甲子園のキッザニアにいってきた。子供が「職業体験」できる、という場所だ。面白いけど高い。人がいないときにいったら面白いだろう。三井銀行やらANAやらSEIKOやら本物の企業が出典している。

freakish me

多様性をつきつめるとfreaksという概念に行き当たると思うのだがその連続性がまだつかめない。

「ふつう」と思っている自分が「ふつう」であることを疑うのはまずまっとうな第一歩に思える。

自分で自分が「狂っている」と思えたときがある。意外にみんな「ふつう」ではないのかもしれない。

freakな内なるものを抱えて、それを外に見せないようにしている力は社会的規範で、その力が具体的にどのように働いているかは検証の必要があるが、ひとつは自主的に「ふつう」の概念を共有し、「ふつう」なところを出して、「ふつう」でないところを出さない、という自主規制だろう。

フリークさは近くに寄らないとわからない、ということは多い。特定の人と近しくなってはじめてその人の異様さに気づくことというのはある。そのときには往々にしてすでにその人の磁場にはまってしまっていて抜き差しならないことになっていることもある。

ところでアメフトでfreakという必ずいい意味だ。beast, animal, monster, freak すべていい意味なのである。

日本語でも、野球選手に対して「怪物」は必ずいい意味だ。

2014年6月28日土曜日

6/27

LOEWEの革は美しい。しっとりとしたマットな光沢。いくつかを試してみたが着るよりも見て触っている方がやや楽しい。詳細は思い出せない。黒はやはりいいし、こげ茶もいい。緑の革もあったがシャレていていいなと思う。

その店は、いくつもの異なる会社の製品を取り扱っている店で女性物が主なのだが、聞けば男性ものもあるということで右の奥の壁のLOEWEから時計と逆回りに長方形の店内を歩く。あとは想い出せない。ジバンシーが悪くないなと思ったのだったかもしれない。男性物がおいていない企業もある。左奥の壁の手前にあるKENZOの小物を見ていると、「男性物は壁側です」と指摘を受ける。KENZOで一番気に入ったのは、落書きのような顔の下に、カタカナで「ケンゾー!」と書かれたTシャツだ。

BALLYが好きだ。2週間前、三田のアウトレットにいったときに、以下のようにtweetした。

ラバーのような白い素材にヒマワリの蛍光のプリントのワンピース、ただ花びらがオレンジなのだ。


LOEWEの革は美しい。しっとりとしたマットな光沢。いくつかを試してみたが着るよりも見て触っ

バス停で遠くから見た女性の衣装だ。きっとラバーではないのだと思う。プリントがひまわりというのもあやあしい。ただ、一日中、素材に触ったり見たりしていたそんな風に自分の頭の中で組み上げた。

段組みがおかしくなっているので新しい投稿にする。というかここで中断する。

2014年6月26日木曜日

夢27

林君の夢を見た。脈絡がなく、記憶も曖昧なのだが、彼が誰かの家にいて、私は自転車で旅行中で、その家で待っている。パーティがあるとかで。夢の最後の方になるとたくさんの人が部屋に入ってくる。その中には、外国人の二人組がいる。今思えば、前の一人はウルバリンの俳優にも似ている。でもその表情は線画のようで、日本人といってもおかしくない。髪型はおにぎりのようだ。散切り頭とでもいうのだろうか。外国人、ロシア人であるはずだ。旧友なのだが、友達というほど親しくはなかったが、好印象を持っていた同僚という感じだろう。後ろの人はわからない。

昨日の朝、秋元先生の授業でティファニーで朝食をの「ユニオシ」というキャラクターの話がでて、それを日本人が演じているという話を聞いたからか。

ソニーの寮にいるとき、ドイツ人が研修に来ていた。ドイツ人というのは屈強というイメージをもっていたがそいつはなよなよとした感じだった。広いホールで立ち話をしながら、ドイツでは、Mercedes > BMW > Audi > VW という明確なランクがある、という話を聞き、今でもそれを信じている。

それからどのようにつながるのかは定かではないが、スーパーマーケットの遠くに浮かぶ川沿いの道を自転車で走っている。橋がある。向きは左向きだ。自分が自分の視界の中を左向きに走っている。初めてきた町で新鮮な気持ちである。

2014年6月25日水曜日

メタファー メモ3

文脈/状況 設定のない、グローバルな設定の意味論にはメタファーは無理。


設定
ーーーー
状況

の非対称性


状況を裏切り、設定を持ち込む


連想的
ーーーーー    (オオカミの例)
物理的


知覚
ーーーー    (これでもいける?)
概念 


ひとつのものに違うものを持ち込み、それを共有できる状況であれば常に可能

連想、異なる視点、設定=潜在的な解釈、作られた身体的設定 deep & shared meaning あるある。



理由を述べること

理由を挙げること。謝罪の際に、理由を挙げるのは日本人的には(私としては)やや違和感がある。

一方、お願いする際(例えば、欠席するとか、仕事を代わってもらうとか)には、理由を述べることは、必須に思う。それは、そのお願いが大きければ、説明の詳細さも従って深くなるように思う。

これは個人の感覚であって、人によって差はあろうが。


2014年6月24日火曜日

夢26

 数日前、夢を見た。母が僕に洗濯物を押し付けている。その中には、よく見るとよれよれになった靴下や土のようになったものまである。汚物がついているようなものまである。母やどうもきちんと整理するように言っているらしいが、それらは部屋中に散らばっており、それをその状態で押し付けられることで混乱が助長されているように思える。というか、なんやねん、これ、という感じ。もう押し売りはやめて、という感じ。ともかく、一人になって整理したいから、一からやり直すから、という感じ。そういえばそういう気持ちになることは多くあったのだろうと思う。
 うちの実家の地域には、北を背にして神社があった。小さな神社だったが、長い階段を上った先にあってそこから見える景色はよかった。ある夏の午後、僕は息子とその階段を登って行った。ハンミョウがいた。それは魔法的なもので、なぜかというと、僕はそこで斑猫を一度だけしか見たことがないからだ。小学4年生か5年生の頃。夏休みの宿題に倦んで重い気持ちでベージュの砂地の境内で石けりをしていたとき。斑猫を始めてみた。ホログラムのような赤と緑。アブのような地を這うように飛び急に着地する独特の飛翔。近づけば離れて着地し、また近づけば離れて着地する別名「ミチオシエ」。その時一度見た切りの美しい甲虫が、アメリカから来た幼少の息子と神社にいったときには群生のように飛び交っていた....
 雲が書き曇り、雨が降り出した。父が二人のために傘を持ってきてくれた。その父は、階段の下に小さく小さなヒト型として映像の中に映っている。その映像を息子も覚えている。

水棲

急にザラザラした質感が飛び込んできた。ハレーションを起こしている。それ以外は青いモノクロームの世界だ。水底にはぼんやりとした網目状の濃淡がゆらゆらと揺れる。気泡の音とシャワーのざわめきが交互に聞こえる。やや上を向くと下から見た水面と日常の世界が交互する。水の中の世界が僕は好きだ。

2014年6月20日金曜日

2014年6月18日水曜日

言い訳

野口先生の授業から。

日本語と英語の謝罪に関する大きな文化差は、「言い訳」存在にある。英語の場合、explanation は必要だし、罪が大きければ大きいほど、説明は必要となる。
日本語の場合には、説明は「言い訳」と考えられ、むしろ潔くないとされる。個人的感覚からもそうだな、説明があると、その行為は悪くなかったと主張されているように感じる。

explicit expression of apology 謝罪表現
reason 理由
Acknowledgement of responsibility 自分の責任を認める
repair 埋め合わせの言葉
promise of forbearance もうしない、という宣言
asking for forgiveness 許しを請う




メディア

砂嵐が流れている。ホワイトノイズが切れ目なく続いている。

アドバルーン

アドバルーンの下
催事場のヒーロー
光化学スモッグ
手を引かれた野球帽
地球で一番 幸せだと思った
あの日の僕に君を見せたい
R.I.P                       BUMP OF CHICKEN

J-POPのメタファーをやっと時のデータをわけあって見直している。アドバルーンという言葉。時代を含んでいる。松本大洋の漫画みたいだ。光と空。





2014年6月9日月曜日

埋め込みを中心に。

こういう仮説はどうかな。

1.一般的会話はフレームレベル、基本カテゴリーレベルでなされる。

2.専門的会話はフレームおよびフレームに入り込んだ(埋め込まれた:embedded)レベルでなされる。

3.専門的会話とは、趣味、スポーツ、芸術、職業、集団生活など、文脈、語彙、人工物を共有したグループ内での会話である。

4.理解語彙と使用語彙の間には10:1の(または大きな)差がある。

5.一般的会話はフレームレベルの語彙を使用し、埋め込みレベルのイメージを使用する。


そうすると

6.1,2から埋め込みは使用頻度に反比例する。

7.1,2,4から一般にはフレームレベルの語が使用語彙、埋め込み語が理解語彙である。

8.1,5から埋め込み語はイメージに富んでいる。(通常、言葉にしない内容に対応している)


イメージ(五感に運動イメージを含む)を呼び起こす力を喚起力とすると、

9. 8から、埋め込みは喚起力に富んでいる。





夕方

ちょっと風邪気味なので、歯医者には電車でいくのがいいと思うのだけれども、明るい新緑の都市を自転車で通り抜けていく誘惑に抗しきれない気がする。

フレーム

長野まゆみは、好きな言葉をノートに集めていたという。分析的に説明するよりも、「入り込んだ」言葉はひとことですべてを説明してしまう。そんな「入り込んだ」言葉がたくさん並べられると、言葉のアクロバットのようにイメージが縦横に跳躍する。

風景

お気に入りの貸しビデオを自転車で通り過ぎた右手に、ポツンと市街地の中に水田がある。薄暗い6月の空を映した苗代はクリームが渦巻くアメリカンコーヒーのようで、その上に白粉を浮かべたような細かな水草に、抹茶のように覆われている。

2014年6月8日日曜日

google マップで

高校生のときのホストファミリーの家にいってみた。303はあるようなのだが、305が見つからないのだ。家を壊したのだろうか。それにしても青い空!

https://www.google.com/maps/@40.966422,-91.551636,3a,75y,-16.95h,88.19t/data=!3m4!1e1!3m2!1slrNDVTznAtE5qrVgoMvXIg!2e0?hl=ja

2014年6月6日金曜日

『夏緑陰』 長野まゆみ (『鳩の栖(すみか)』の中の短篇)

藤棚のある茶店で母が用事をしてるのを待っている。年に一度ほどだ。決まって林檎水を飲む。小一時間ほどして母が戻るのを待っている。林檎水には透明なものと乳白色のものがあり、いつも悩んだすえに乳白色のものを選ぶ。

切り取られた断片。映像の欠片。サリンジャーの『コネチカットのひょこひょこおじさん』を想い出す。いやそれではなかった、野球のチームのコーチに来ている青年が恋人と別れる話だ。

ゴフマンを読んでいる。チェッカーをするときに例えば、"a bad move" といっても、手の動かし方が下手だった場合と、チェッカーの作戦として悪かった場合とニ種類が考えられる。

2014年6月4日水曜日

6/4

 すでに多分一度や二度は書いたのだろう。僕が小学校に入る頃、四日市に引っ越してきて、父は僕を釣りに連れて行ってくれた。それは本当に近くの川で、歩いて3分くらいのところだった。釣りなどをしている人はいなかったから、新しい我々はよっぽど奇異に見えたかもしれない。父は、高校くらいの時に息子が戦死して、夫もなくなったその家のおばあちゃんのところに養子に入っているはずなので、すでに数年はそこで暮らしたことがあるのかもしれない。それとも、東洋紡に勤めている間、20歳から結婚するまで28歳くらいまではそこに住んでいたのか。いや、多分社宅に住んでいたのだと思う。だからあまりそこには住んでいなかったのだと思うのだが、大阪に6年、希望退職で四日に戻ってきて、凱旋のような気分でのびのびしていたのではないか。
 その川は僕が中学校に入った夏、集中豪雨で氾濫してうちは床上浸水してしまうのだが、当時はまだきれいな川だった。木でできて土を盛った橋の上から釣竿を落とす。「はよ」と呼んでいた細い体の魚が面白いように釣れる。エサはない。毛バリという蚊に似た疑似餌だけで何度も何度も釣れるのだ。バケツに一杯になった。僕も釣らせてもらった。3時くらいから始めたのだろうか、陽が傾いて空がピンク色の染まり美しかった。多分バケツにも映っていたのかもしれないが、思い出せないことは書けないのだ。当時、引っ越してきて友達がいるわけでもなく、きっとつまらない思いをしていたはずなので、その出来事はその頃のとても楽しい思い出として記憶に残っている。父と釣りをしたのはそれが最初で最後だ。近所に住む遠い親戚から父は冷やかされたりしたのかもしれない。釣ってきた「はよ」を井戸にいれておいたら二日とたたないうちに死んでしまったからかもしれない。

 大学生で留学に行く前、家族で大王崎に行った。その時には泊まらなかったのだと思う。浜に、虹色のチューブのようなものがたくさん打ち上げられていた。多分、クラゲだったのだと思う。鮮やかで美しかった。

 父を思うとき私は常に憐れみを持って思い出す。それは私の思考の癖だと思う。小学校1年生になって、キャベツ畑にモンシロチョウの卵を取りに行く。モンシロチョウの幼虫はキャベツしか食べない。科学の本に書いてあったのは、幼虫から育ててはいけない、ということだ。幼虫は小さなハチの卵を産み付けられていることがあるが、卵から育てればそうはならないからだ。小さな五角形の模様のついたラグビー型の卵は

2014年6月3日火曜日

夢25

小さなテレビがある。土のにおいのする汚い家。土間。冷蔵庫。土に直接置かれている。僕は、その家に泊めてもらっている。テレビでは「小さな恋のメロディ」がかかっている。
 場面が変わる。体育館のような場所。薄暗い。僕は女の子の付き添いのようにして仲間にいれてもらっている。バレエをしている。自分の番になる。音楽がかけられる。自分ではすべて完璧にできると思っていたのにやってみるとできない。少しもできない。みんなが両手を上に丸くあげてやるべきことを示してくれる。小学生や中学生の子らだ。両手を上に上げ回ろうとするが2回転して倒れてしまう。そこは回るところではなかったのか。両手を上げる今度は一回転をしてみるが、今度は倒れないが、だいたい、回転は入っていたのか。「先生」は黒いひげの人で外国人だが、見放したような感じだ。僕がここにいられるのはその女の子のおかげで、その女の子はそこではみんなに囲まれて好かれている。僕は自分がすごくできると思っていたのに少しもできないことで皆の僕に対する視線が変わり(あるいは自分の見るみんなの見方が変わり)、その社会で落ちこぼれた立場になってしまう。
 泊めてもらっている家に戻ってくる。テレビや音楽でメロディが流れているのは、ホーンさん(阪大のときの同期、現ケンブリッジ?(調べたらオックスフォードだった)がメロディが好きだったからか、と思う。ここは、どこだっけ。カリフォルニア、北じゃなかった。ロサンゼルスの近く、か。ダニービル(Dannieville)というところだったはず(調べるとDanvilleという地名なら北カリフォルニアにある)。

確かに、夢には圧縮、投射、分裂などなどがあるなぁ、と思わせる。分析はさておき。

2014年6月2日月曜日

6/2

歯医者に行く用事があった。桜井というところで、大阪大学の北である。運動と再来週に迫った阪大での関西言語学会に行く予行として、自転車でいくことにした。
 桜井には思い出がある。阪大の大学院に行っていたとき、同期だった人の一人がそこに住んでおり、ご主人も交えて何人かの院生でお邪魔したことがある。
 初回に歯科医に電話をかけたのは朝7時半だった。1週間前のことだ。多分でるわけはないと思ったがあとで予約をするために番号を携帯に残しておこうと思ったのだが、医師当人がでてやや驚いた。その医師は的確な説明をしてくれた。「桜井には出口が一つしかありません。出口をでて、地下道を通り反対側に出ます。石橋に戻る方向に歩きます。最初の踏切は人しか通れない踏切です。二つ目の踏切は自動車も通れる踏切です。その二つ目の踏切を左に曲がり、100メートルほどいった右手にあるのが当院です」
 院生の友達の家は、その説明でいえば、一つ目の踏切と二つ目の踏切の間ぐらいのところを線路から離れる方向に曲がったところにあったはずだ。日曜日の天気のいい日だった。まだ、修士論文の決まる前、2年目の初夏、ゴールデンウィークくらいではないだろうか。
 さて、先週は、雨の降りそうな中、電車でいった。石橋駅で箕面線に乗り換えて一駅。今日は、自転車だ。実は、その田舎にあるペパーミントカラーで色塗られた豪邸風の写真をタウン誌で見て、選らんだ歯科まで自転車で。
 走り出してみると以外にわかりにくい。車なら新御堂を北へ上がり、千里中央で中国道の側道に西に向かって阪大、柴原へ出る。これは直線ではないので、その2点を結ぶ緑地公園を突き抜ける最短距離の走路があるはずだ。こんなときスマホは助かる。と思うが、自転車だと止まらないと見れないのが難点だ。
 大学から一つ目の噴水を登り(千里山には二つの噴水がある)竹林の坂道を下って新御堂にでる。

『鬼六人生三昧』 団鬼六

特殊な分野で有名な著者の、それとはまったく異なる将棋に関するエッセイ。最後の方になると大山康晴が死んだ話、升田幸三が死んだ話、と死んだ話ばかりになる。まあ、それにしても、豪気な人だ。

『東京島』 桐野夏生 (ネタバレ注意)

 30人なにがしかの男ばかりの無人島に唯一流れ着いた女。そんなえぐい設定が気にはなっていたがそれゆえに読めなかった作品。久しぶりの研究以外の読書としてはサクサク読めてよかった。興味を引いたのは子供の時に死んだ姉?を内包した多重人格者のくだり。人間は自分で自分の能力を閉じ込め、ある特定のスタイルを演じるように自ら強いる場合があるという私説に合致する。
 
 設定の奇抜さ(論文でいえばOriginalityに当たるだろうか)は十分で(もちろん、もしかしたら先行例があるのかもしれないが)オチ(こちらは主張か)もいいと思うのだが、論旨の説得性にやや疑問符がついた。最後の方にフィリピンからの漂流者がやってくるのだがこれが女性ばかりなのだ。それは作者の若い女に対する劣等感をあらわしていると思うのだが設定を破壊するつけたしに思われる。そこで以下のような制約を思いついた。

同型性の制約
物語の設定と結末の参与者は同型性を保っていないければならない

例えば、無人島の設定の中にはフレームとしてその情報やそこに隠された情報がある。その範囲内でなければいけない、ということだ(あれ、やっぱり十分な説明になっていない。。。)。



『銀河鉄道の夜』 宮沢賢治

 宮沢賢治について、月並みなことしか書けへんなあ。そしたら、最初からやらへんかったらええのに。まあ、熊の描写やら、猫の描写やらその表情やら、上手に書かはるなあ。あとほれ、木いの名前、本とよう知ってはる。あとは方言がええなあ。方言ていうのはそら、臨場感みたいなんがでるからなあ。なんかずるいわ。そやけど東北の方の方言聞くのはええなあ。方言女子いうのが流行るのもわかる気がするわ。
 アリルダロダは、って初めて見ても、色が違うがや。ジョバンニは茶色い名前、カンパルネラは黄色い名前、アリルダロダは赤か紫やから、色が違うがや。も一回いこか。ちょっとまず名前だけ並べてみよ。
 ムリャベッタ、カリトマーニ、カリマトーニ、エギラゴ、トマトマーニ、プリマサッチョ、エギギスカ、名前ひとつ作るの難しいわ。そんなら太郎平で。
 
 太郎平はさかま木の狭間からじっと見ていました。その日は6月のホロ路木の日で、母から頼まれたとちの実をまだ半分も取れていないのにです。

あーめんどくさ。

トム・ブレィディ、ノーマン・ライアン、ビル・ビラチェック

トム・ブレィディとは、稀代のQBだが、今朝のNFL.comのニュースには彼と、ノーマン・ライアンという稀代の名投手を比較する記事が掲載されている。ノーマン・ライアンは46才まで現役で、そのコーチで現ブレィディのパーソナル・コーチであるトム・ハウスは、ブレイディにはライアンと似たところがあり、40代半ばまでプレーできる可能性が高いという。
 もちろん、利害は絡んでいるからな。ブレイディはそう言ってくれるからこそトム・ハウスを(2012年に)コーチに選んだわけだし、トム・ハウスは選手生命を長くする専門家なわけだから中立的な意見とは必ずしも言えないことに注意。
 今回、NEペイトリオッツは、ドラフト2位指名でイケメンQB、ガロポロを指名したが、これをブレィディは「チャレンジ」と感じているという。ここでは「敵対的」に近い意味か。ブレィディの後継を契約が切れる2~3年後に合わせてとったということで40になった時点でハイ、サヨナラとなることを懸念しているわけだと思う。
 しかし、まあ、これだけ活躍してるんだから、40になったらすっきり引退したらいいと思うんだがな。確かスーパーボウルリングも3つ取っているはず。一方、悪役顔のビル・ビラチェックというヘッドコーチ(監督)の目標は、「ブレイディの後、スーパーボウルリングを取る」ことだという。これは思いもよらなかったが、確かにその気持ちはわからないではない。自分の契約は安泰。これまでブレィディの活躍と二人三脚でやってきたが、本人の思いとしてはブレイディの名QBとしての名声のいくぶん陰に隠れた口惜しさがあるのだろう。ブレイディ抜きでスーパー制覇が達成できて初めて、陰口を叩かれることなく、名監督という名声に浸れることになる。
 ということは、3年やったのちにブレィディはフリーエジェントでは。その行く先は....... NEのライバルで... QBがトラブル続きで..... なりふり構わないチーム.......

ジェッツ!?w

2014年6月1日日曜日

いちご

苺を捨てた。このような陥穽(かんせい)はどこにもある。一つは3月に息子と一緒にいったときに梅の花の咲く緑地公園の苗木市で、二株はいった波型の縁を持つ白いプラスチックの鉢のものだ。もうひとつは、(むしろ妻の)お気に入りの小さな花屋で母の日のプレゼント用にカーネーションを購入したとき一緒に自分用に購入したものだ。枯れかかってコバエのような小さな虫が飛び回るようになっている。もう苺の時期は過ぎ、これからこの虫たちと戦って来年を待つ効率を考えれば捨てる方がましだ。人生の黒点。何気ない凶兆。根絶やしにする。

アメフト 総称文 ためいき ダブルチーム

昨日の文書は、2650字であった。まあ、これから一日、4000字、原稿用紙10枚書くペースで、年3000枚ペースを確立するということでいいか。まあ、このあたりのバックステージトークは、後々消していくことにする。
 最近、アメフトのことを考えていることが多い。応援しているチームがオークランド・レイダーズというチームで、そのチームにヒューストン・テキサンズというチームからクォーター・バックが来る。まあ、ここまで話した時点で、NFLに興味も知識もない人がほとんどだろうから、???という内容になろう。
 また話しが一つ戻るが、最近、我々の語彙のオーバーラップ少なさに驚く。学生に「ほかの人がしらなそうな、バイトやスポーツ、趣味(音楽、ダンス等々)の言葉を2つ以上書いてきてください」という課題を出す。そうするともういい大人の私でも全然しらない用語が多くある。つまり、これを反映すると語彙分業説といったものになろう。今、この用語を作成したが、英語では、division of labor theory of vocabularyとでもなろうか。専門家theory of vocabularyといったものがあったと思うがそれと同じだ。語彙の貯蔵は分業されている。その分野にいる人々たちがその語彙を持っている。すべての人がすべての分野にいることはかなわず、すべての語彙を持っていることももちろんない。
 さて、アメフトの話に戻るが、パソコンのスクリーン越しにも見える鮮やかな芝生と青い空のとも、発給ならぬモンシロチョウの卵型をした茶球を追う輝きの背後には複数の知識が存在する。これから書きたいのはフットボールの試合の仕組みなのだが、その前に、オークランド・レイダーズとか、ヒューストン・テキサンズ、オークランド、ヒューストンに関する知識が存在する。
 まず月並みな知識としては、NFLには現在、32チームがあることだ。これは、AFC (American Football Conference)と、NFC (National Football Conference)の二つに16チームずつに分かれる。日本の野球でいえば、セリーグとパリーグと思えばいい。フットボールを知らなくても、野球という異なるスポーツの、コンフェレンスとは違うリーグという名前の異なる国のシステムを知っていることで、理解がごくスムーズにいく例である。ただ、名前はどうあれ、このようなシステムは共有的に利用されているのだと思うので、もっと高次のレベルで汎用フレームが存在するのだと思う。いいなこの汎用という語、genericの訳として。東大の坂原先生、京大の田窪先生のグループが前に書いた「総称」という用語を使用してる。総称は、たとえば、(1)の文を英語でgenericと呼び、日本語で総称文ということに由来している。

(1)A wolf is nocturnus. (オオカミは夜行性だ)

主語が複数形でも単数形でも、オオカミ一般について述べている。こういった文章を総称文という。一方、メタファーの文脈では、Generic is Specific メタファー(スキーマ)というものが提唱されており、ここでは<一般は特殊>言い習わされている。新たな用語を導入すると担って申し訳ないが、汎用は悪くないと思う。
 さて、AFCNFCというふたつのカンフェレンスがあり(情報を見ると「ンフェレンス」となっていた)コンフェレンスにすでに既存の色があるので音訳して「カ」としたのだろうな)それぞれのカンフェレンスは東西南北の4つの地区(division)からなる。4x4=16である。
 こういった知識のほか、それぞれのチームの特徴がある。これなんかは、どこにも規定がないので、個人の印象やその集合としての社会的印象となろうか。オークランドに関していえば、黒人のチームで、ガラが悪く、むかしから粗暴で、ブラックホールというエンドゾーン付近は敵チームや敵チームのファンにとってはまさに地獄というイメージだ。ヒューストン・テキサンズはしらないが(新興チームなので)、ペイトリオッツだったらイケメンQB率いるエリート集団(15年前までは弱小チームだったが)、ダラスカウボーイズだったらAmerica’s teamと呼ばれる華やかなチームなどなどがある。ちなみに、サンフランシスコとオークランドは隣りあわせの都市であるが、オークランド・レイダーズは黒人の悪ガキのチーム、サンフランシスコ49ers(フォーティーナイナーズ)
は白人の優等生のチームだ(野球になると、サンフランシスコ・ジャイアンツが黒人のチーム、オークランドA’s(エーズ)が白人のチームと逆転するところが面白いが。
 サンフランシスコには市内に野球場があり、部屋がいくつもあるマンションに当時すんでいた翻訳会社の社長のヨーコさんのところに部屋を借りていたことがあったが、市内からデイリーシティーにいく高速にいく途中にその球場の横を通ったことが何度かある。青空は薄い水色で、雲がいくつもぽっかりと浮かんでいる。夏の終わりのころだろう。
 さて、こういった知識がすでにその分野を知っている人とそうでない人の間で違い、まあ、かといってそれを知っていないからといってどうというものでもなく、それぞれの人はそれぞれ自分の足を埋めて体をつないでいる人々と共有した分野を持ち、それは仕事だったり、趣味だったりすると思うのだが、あるひとつの分野に対する知識はひとそれぞれで、知識ゼロからちょっとだけ知っているというところまで連続的である。

 昨日の、会話分析の睦まじい話が頭に蘇る。アメリカに留学していて、今は遠い州にいる男女の電話の会話だ。男が車を買ったよといい、女が、え、と一瞬絶句する。そして、名前を聞きたがる。でてきた情報は女が知っている車名ではなかったが名前と値段を聞いて、へえぇ、と本当に深く感嘆する。その情動。「XX(自分の州)まで来てよ」、といい、相手の言葉を待たずに「遠いか」と自分で否定する。明らかにこの両者の関係で女は男に対して弱い立場にある。権力の話に戻ってくるわけだ。会話という一つの閉鎖環境を取り巻く権力の磁場。権力関係はどこにでもある。平等な立場、不平等な立場、その二つしかないか。ただ、その在り方には感情の数だけさまざまなものがあろう。
 
 さて、アメフトの話。11人で行うところはサッカー似ていて、楕円形のボールを使用するところは、ラグビーに似ているが、通常の球技と決定的に違うところがある。それは、攻撃と守備が明確に分かれていることだ。攻撃の際には攻撃用の11人が、守備の際には守備用に11人が登場する。そして、攻守がはっきりと分かれ、その間で時計は止まる。その意味では、野球に近い。さて、今日は、特にラインの話だ。ラインとは攻撃と守備がぶつかる最前線であり、以下の図式に従う。


                  DE    DT     DT     DE
     ディフェンスライン  ●     ●     ●     ●
    オフェンスライン ○    ○     ○     ○     ○
               LT         LG           C           RG          RT

                                                           ○
                           QB


DE= Defensive End
DT= Defensive Takle

LT= Left Takle
LG= Left Guard
C= Center
RG= Right Guard
RT= Right Takle

QB Quarterback


QBはボールを投げる訳。攻撃の司令塔である。ボールはセンターからQBに渡される。LTからRTまでの5人がオフェンス・ライン(OL)と呼ばれる。これは、QBを守る城壁と考えることができる。両端のタックル(LTとRT)は城壁を守る要であり、重要な役割である。特にQBは右利きが多く、そのブランドサイドとなる左側を守るLTにはラインで一番屈強な選手が充てられることなる。この時点で、私たちは例えば、以下のようなメタファーを使用することができよう。

(2) 奴は我がチームの QBだ / LTだ

 さて、オフェンスラインはQBを守る、攻撃の中の防御的役割を果たすため、ディフェンスラインはディフェンスといいつつもむしろ攻撃的な役割を帯びることなる。その中でも特にDEは相手の防御壁を外側から回り込んでQBを捉える力持ちでかつ俊足の運動能力の高い選手が起用されることが多い。DTはそれよりはむしろ巨漢で、相手のランを止めるための主要なブロックの役目をすることが多いが、それもチームによりけりで、真ん中から相手のラインを壊すことができればそれはそれで大変な貢献である。
 さて、たとえば特定のLTが非常に強い場合、ディフェンスは2名をそのLTに割り当てて突き崩す算段をすることがある。これをダブルチームという。これをメタファーで使うとどうなるか。ディベートや企業競争などで、特定の優れた能力を持つ人をマークするために2名なりの要員を費やす。

(3) We need to double-team Mr. Johnson.

といった発話は可能であろう。この際、話者と聞き手は、まず、double-teamのアメフトでの意味を正しく理解していなければならない。
3664字




2014年5月31日土曜日

5/31

 暑い。夕刻になってもその暑さが変わらず、夏の夜のような印象を受ける。実は、念頭の今年の目標に、莫大な数字の文書を書くことを決めたことを思い出した。娘の今年の目標は、食事のマナーを良くする、息子の今年の目標はパパとママのいうことをよく聞くであった。私の枚数は覚えていないのだが、1000枚といった数字ではなかった。原稿用紙3000枚かと思ったが、それでもまだ足りない気がする。多分、一万枚だったのではないかと思う。それだと、考えを止めえたり、文書を練ったりする時間はまったくないのだが、そういう意図で考えたのだろう。描写がしたいのだが、書く中で描写を練りこんでいくしかないか。
 そう、概念的な文書と知覚的な文書と異なる文章としてとらえている。そしてその間を行き来することが人間らしい文章だと考えている。しかし、このパソコンの電池は多分、今日の文章を書くほど持たないだろう。
 引き続き、文とは情緒と情報の両方を含むものとしてとらえている。情緒はいいね→欲しい→くれよ→(もぎ取る)というように、評価性ー感情ー言語行為(この場合は依頼/命令)-行為という連続を呼び起こすものとしてとらえている。情緒と情報の2文は、モダリティと命題の二分法と対応する。(益岡氏を思い出す。たしか今頃ハワイにサバティカルにいるはず!)

 本日は広島国際大学の杉本さんと打ち合わせで昼食を食べ、その後大阪教育大学の串田先生の主催する会話分析研究会へ一部参加、その後家族と夕食を取る。その前は息子の授業参観。
 テラスにはジャガイモと思しき同じ苗がたくさんの並んでいる。いや、花が咲いていたから茄子を栽培しているのか。白いプレートにひらがなでかかれた文字。いや、「山ざき」など、すでに習った漢字は使用されている。焚火のにおいがする。その方向を見ると琵琶と思しき、黄色い見が見える。いや遠いからでもしかしたら柑橘類かもしれない。
 杉本さんとは会話分析のメタファーの話をしている。詳細は割愛するが、たいへん勉強になる。意識と無意識というのがこれからのメタファー研究には重要である気がする。
  会話分析の研究会ではイリノイ大学の林誠君が来ていた。久しぶりだったがまったく(!)変わっていなかった。有名になったねえ、出世したねえ、というのが伝えなければならないことだったが、最初に話したのは、何年振り?ということで、私の口をついて出たのは24年ぶりということだった。よく計算してみると20年ぶり程度で、最初に会ってから足掛け23年ということになろう。
 会話分析の研究会でいつも思うのは、最初は変哲のない、むしろなんの面白みもない取るに足らないと思われる話が、2~3時間話したあとにはすごく面白い、これほどエキサイティングなものはない、と思えるほどの内容になることだ。その人たちの心、二人の(参加者の)間のドラマ、そういったものを想像するときりがなく、尽きることはないし、その人たちにも話を聞いてみたくなる。もしかしてそれはこちらがそれらの人々のどんどんドラマを読み込んでいってしまうからかもしれない。それはそれですごいことかもしれない。

 過去のイメージの断片が浮かんでくるがどこかは思い浮かばない。輝く線路。輝くアスファルト。踏切の向こう。四日市の西側、工業団地の中。
 そこにある屋内市民プールで僕の中でクリシェになった次のような思考を考えていた。こんなにたくさんの人がいて、それらの人はそれぞれにたくさんのことを考えているはずなのに、それは見えなくて静かな、当たり前の喧騒だけが流れている。水しぶきの音、嬌声、頑なにラップを続ける規則正しいビート。みんなの思考が目に見えたらこのプールはどれだけいっぱいになってしまうだろうか。

 昨日は、四日市に行って実家の仕事をしていた。その詳細は割愛する。木曜日は授業。3年生のゼミの一人がKAZUO ISHIGUROの翻訳をやっている。ここで披露するほどの話ではないが(といってから考え直して披露することにする、ネタバレ注意)。彼女によれば、この本はNever Let Me Goという作品らしい(彼女には恥ずかしていえないのだが久しぶりに英語の本を読んでみようと思いアマゾンで7~8作品注文した)。舞台は近未来で、特殊な設定があり、特殊な設定に合わせたcarerという特殊な職業を今まさにやめようとしている人の回顧伝である。
 そこにはその人の出身のヘイルシャルムという「学校」が出てくる。そのヘイルシャルムの評判はたいへんなもので、多くの人がそれを嫉妬して憎み、多くの人が羨望する。まず、ここまでで、近未来的パラレルワールド(うちらの用語でいえばメンタルスペース)の設定、そして、その内容が分からないが言葉が独り歩きしている「聖域」としてのヘイルシャルムの描き方が(うちら、というより私の言葉でいえば評価性、に関連すると思うが、評価性がミスティシズムにまで高められた感じか)すごい。先ほどの言葉でいえば、評価性は行為の直接つながる/裏返しである。どうしても行きたいところ、どうしても手に入れたいもの。願い、祈り、魔術。
 KAZUO ISHIGUROにユニークなのではないかと推察するのだが、その「聖域」性を示すために、作者はある語り手のある「患者」がヘイルシャルムのことを聞きたがり、それがどうも、語り手の brain を pick することによって、ひとつひとつのエピソードや描写を自分のものとして体感して、あたかも彼女(語り手)の記憶を彼(患者)自身の記憶にしてしまいたいと考えているようであることを示した点が面白い。ことばとしての情報。それをひとつひとつ視覚、触覚、身体情報に置き換えていく。そして、ヘイルシャルム出身という特権・stigma である記号を自分に纏いたいと思っている、自分に纏うとしている点である。
 熊谷晋一郎さんに、「熊谷さんの話には権力や暴力の話とつながってくるから面白いですよね」とと伝え、「暴力の究極の形は身体的接触ですものね」と伝えた(暴力の究極の形とともに愛の究極的形も身体的接触であるが)のだが、ゴフマンの社会学的研究にもstigmaについての研究がある通りそういったものがかかわってくるのだと思っている。

森本さんがブラインドを上げて見せた関西学院梅田サテライトの景色を思い出した。観覧車や初夏の傾いた光に照らされたうつろやかな梅田の空がきれいだった。いいなあ。

 

2014年5月29日木曜日

2014年5月28日水曜日

フロイト(授業から)

フロイト

人はなんらかのかたちで、自分に抑圧をかけており、それを無意識下に封じている。人によっては、抑圧された無意識部分が非常におおきく、それがその人に害を成すケースがある。


超自我
自我
イド


防衛メカニズム

否認 事態がまったく消されている(denial)
圧縮 AさんとBさんが1人に合成
投影 Aさんが一方的に怒る(自分の怒りを投影) (projection)
置換 母親の代わりにAさんに愛着と憎悪を抱く (replacement)


Name of Defense MechanismDescriptionExample
Repression
Burying a painful feeling or thought from your awareness though it may resurface in symbolic form. Sometimes considered a basis of other defense mechanisms.
You can't remember your father's funeral.
DenialNot accepting reality because it is too painful.You are arrested for drunk driving several times but don't believe you have a problem with alcohol.
RegressionReverting to an older, less mature way of handling stresses and feelingsYou and your roommate have get into an argument so you stomp off into another room and pout
ProjectionAttributing your own unacceptable thoughts or feelings to someone or something elseYou get really mad at your husband but scream that he's the one mad at you.
SplittingEverything in the world is seen as all good or all bad with nothing in between.You think your best friend is absolutely worthless because he forgot a lunch date with you.
Isolation of affectAttempting to avoid a painful thought or feeling by objectifying and emotionally detaching oneself from the feelingActing aloof and indifferent toward someone when you really dislike that person
DisplacementChanneling a feeling or thought from its actual source to something or someone else.When you get mad at your sister, you break your drinking glass by throwing it against the wall.
Reaction FormationAdopting beliefs, attitudes, and feelings contrary to what you really believeWhen you say you're not angry when you really are.
RationalizationJustifying one's behaviors and motivations by substituting "good", acceptable reasons for these real motivationsI always study hard for tests and I know a lot of people who cheat so it's not a big deal I cheated this time.
AltruismHandling your own pain by helping others.After your wife dies, you keep yourself busy by volunteering at your church.
HumorFocusing on funny aspects of a painful situation.A person's treatment for cancer makes him lose his hair so he makes jokes about being bald.
SublimationRedirecting unacceptable, instinctual drives into personally and socially acceptable channelsIntense rage redirected in the form of participation in sports such as boxing or football
SuppressionThe effort to hide and control unacceptable thoughts or feelingsYou are attracted to someone but say that you really don't like the person at all
UndoingTrying to reverse or "undo" a thought or feeling by performing an action that signifies an opposite feeling than your original thought or feelingYou have feelings of dislike for someone so you buy them a gift
 http://www.utahpsych.org/defensemechanisms.htm

朝飯前

朝飯前というのを多分10年以上ぶりに実践。1時間かかる。全然朝飯前じゃない。

ただ、一日のペースを決める活動だからな。いつも朝飯から食ってたから食べることばかりしか考えられなかったんンだw

2014年5月27日火曜日

退屈

退屈なくらいがちょうどいい。


3年生ゼミの学生が、KAZUO ISHIGUROの翻訳を提出してきている。名前だけは知っていたがとてもいい。人生の「質」というのものを上手に救い上げている。質、とか淵とかいう言葉が僕の中にある。分厚さ、というイメージだ。

こうしている間にも月は膨れ上がっている。満月も近い。

豊満な充溢の中に放り込まれようとしているのかもしれない。

退屈などではないのかもしれない。

TOEIC → 単語と文法 → 形式的統語論の循環論

TOEICで一番大事なのは単語ではないか、と思いつつある。appraisal といった単語は4000語には入ってこないと思うし、たぶん、JACET8000にも入っていないだろう。

仕事場のソファーにフランス語の単語カードが散らばっている。昨日、書棚より落ちたものを拾い集め、オリエンテーリング的な単語記憶法もいいかなと思い、そこまではいけないが、ソファーに散らしたのだ。家にある絵の英単語カードを子供のためにあちこちに隠しておこうと思いながら。

より一般に、文章は、一定のパターンに沿って配置された単語だから、単語カードの羅列よりも情報が多い。

単語の配置に冗長性(redundancy)があるわけだ。ところがこの冗長性は単語に品詞を振らないとわからない。形式的な名札としての品詞(統語範疇 syntactic category)は逆に、そのいかめしい名前が示すように統語との関連で規定される。だから、ここは循環論になるし、まじめに考える統語論者であればそれに気づいていると思う。

形式的統語論の陥る可能性のある循環論
統語構造は品詞を元に規定される。
品詞は統語構造を元に規定される。


今日はここまで。 

「人間の視覚機能のゲシュタルト原理から 言葉は作られている」

http://ameblo.jp/machisowa/entry-11861721087.html

umeponさんという方の「認知言語学とゲシュタルト」というエントリーです。

「人間の視覚機能のゲシュタルト原理から  言葉は作られている」

という部分が面白く感じられました。

ちょっと検証してみましょう。

ゲシュタルト原理とは「構成性原理」(principle of composition)の裏側です。

構成性原理とは、「全体は部分の総和」という考え方です。

部分の意味を足すと直接全体に意味になりますね。

統語の場合にはややこしいですが、

1.全部の単語の意味を足すと、全体の意味になる
2.全部の単語の意味と統語構造の意味を足すと全体の意味になる

という2種類の考え方があり得ると思います。

後者は形式的統語論者には受け入れがたい仮説でしょう。かといって、1であるわけはありません。ですから、形式的統語論者はこのような問題設定をしないですね。この問題設定は認知言語学特有のものですね。


さて、視覚機能のゲシュタルト原理というのは、フィギュア・グラウンド反転(図地反転)のような話ですね。


http://www.naturalrooms.com/blog/2010/09/post-7.html

すごいな、こんなもの実際に作っちゃった人がいるんだ。

「視覚機能のゲシュタルト原理」というのは補足が必要で、ゲシュタルト原理は視覚機能に限ったものではないでしょうね。静寂があると小さな音がとても大きく聞こえるとか、これなんかもゲシュタルト原理に基づいているといえるでしょう。そして、認知言語学で使われるゲシュタルト原理は確かに視覚的なものを多く使いますが、視覚に限定しているわけではないと思います。

視覚機能のゲシュタルトというのは結局、一次視覚野(後頭部)から入ってくる入力が次第に人間の行動に便利なように加工されて高次の視覚野にそれに対応したニューロンが  できた/ある  ことから、今度は高次の視覚野のある表象が実際の一次視覚野に探されるようになるという現象ですね。古くからある言葉だとトップダウン処理です。トップダウン処理を言語処理に入れる必要があることは論を待たないですね。

次に、「言葉はゲシュタルト原理から作られる」という部分です。

上記から続きますがトップダウン処理を使わない言語処理など認知的にありえないですね。「言葉はトップダウン処理から作られる」という語弊がありますが、双方向の相互作用は既定路線です。

認知言語学、意外に王道かも。











2014年5月26日月曜日

無題

ポツンポツンと雨音が聞こえる。

読んだ本

本をずっと読んでなかった。五月の連休の最後、妻の実家に行って暇だったので近くの駅まで歩いて行った。雨が降りそうな、薄曇りの日だ。坂を下って多くの池がある景色を通り抜け、国道に突き当たる。どこを歩いているかわからない、迷走感、は悪くない。そしてアメリカのような広々とした道と町並み。アイオワかサクラメントかに来たような感じだ。

熊谷晋一郎さんの『リハビリの夜』を探していたのだが、見つからなかった。天牛書店がこんなところにもあるのか。本などは邪魔にこそなれ、買う必要はないと考えるようになってからかれこれ数年立つ。150円で単行本が売っていた。哲学の本などもあるのでつい読みだしてしまうと買ってもいいか、と思いはじめる。8冊ほど手に取ったのだがそこからどうしても気になるものをセレクトした。

『東京島』 桐野夏生
『鬼六人生三昧』 団鬼六
『銀河鉄道の夜』 宮沢賢治
『宇多田ヒカルの作り方』 竹村光繁
『手に取るようにNLPがわかる本』 加藤清龍

だいたい全部読んだので後に紹介しよう。ああ

『リハビリの夜』 熊谷晋一郎 

もぜひ。

2014年5月25日日曜日

無題

体育館に冷たい風が吹いている。今日の一日の終わり。
翻訳論の採点をやっていると、学生さんたちには、一般化が苦手であると思わされることがある。今回は、generic な文章がでてくる。ジェネリックとは?このハンドアウト 

妻がいろんなものを白に塗りたがる時期があった。椅子やテーブルなどだ。なにか、象徴的な意味があったのだろう。

遭遇

使用依拠モデルの言語学では遭遇と頻度が重要になる。

遭遇と頻度は、「実際の遭遇」と「言語的な遭遇」に分かれる。

雪を言葉でしか知らないアフリカ人を見よ。

「というか」考→メタファー

仕事場のポット洗浄中。ぬるま湯(40℃)という微妙な指定。沸かしすぎて60℃に。2/3を捨てて水道水を入れたら40℃になる?と思ったら50℃に。そうか、水温計算するの忘れてた。


とツイッターに書いた。


仕事場のポット洗浄中。ぬるま湯(40℃)という微妙な指定。沸かしすぎて60℃に。2/3を捨てて水道水を入れたら40℃になる?と思ったら50℃に。そうか、水温計算するの忘れてた。というか、常温で洗浄できるようにしておいてよぉ。

と加えようと思った。


1.ぬるま湯というのがひとつの突っ込みどころだからそれを拾わねば。要伏線の回収作業。

2.「というか」というのはフレーム変化詞である。簡単にいえば、「俺の土俵でやれ」という主張。

3.メタファーにはフレーム選択がかかわっている。(語用論学会のワークショップで発表しましたね)

安倍さんが昔、「日本経済はバンカーに入っている」といったのに対して前原さんが「バンカーから出してもグリーンに乗るかどうかはわからない」とちょっとしゃれっ気を出したつもりで応えたが、そこは、「日本経済のような重要な問題をゴルフに例えるとはいかがなものか」と答えなければいけない。相手の土俵に乗る必要はないし、乗ってみてもこのケースでは全く得にはならないのである。

セイフティ

セイフティというのはディフェンスのタイトエンドか。17年アメフトを見ていて気付かなかったことが一つのアナロジーで変わる。

グルーデンはタイトエンドをジョーカーだという。トランプの意味でだ。

チェスや将棋ではナイトや桂馬。

ユングの枠組みではトリックスターか?


黄泉がえりの物語

死の問題は、...まあ、なんというか、...大きなテーマだ。マジカルというのも、これに関することだし。うちの娘が小さいときにこの問題にかかずらわっていたせいで、娘が「パパとママが死んだら、まず、近所の家にいって...」といか言い出すのでちょっと悪いことをしたなと思っている。

西鶴の「面影の焼残り」という話は、大事にそだてた14歳の娘が婚礼の用意も万事整えて、婿選びをしていたのにちょっとした風邪にかかって死んでしまったというもの。乳母の夫が火葬の日の翌日、人より早く身に行ってみると「死人」を見つけたが、よく見るとまだ「惣身黒木のごと」焼けたその娘だったという。微かに息があり、半年して親に伝え、3年して元の美しい女に戻り、女は親に伝えたように「出家になし」たという話。

なにか、アンチクライマックスな感じでストーリーとしてパンチがない。そこにアンチ物語が感じられ、逆にリアリティがうっすらと出ているという感想。

よみがえる→多義

黄泉帰りから。いわゆるback formation だな。このbackは帰ってきたbackとは違うのだからして。形態論の用語だ。

昔は、その人(「あいつは黄泉がえりだ」)に使われてたのだろう。ムショ帰りみたいな感じかな。それが現象一般をさすようになった。とすればメトニミー。

1年前までは、多義に手を出すな、と学生にいっていたけど、つい数日前に、fallの多義というネタに思い至った。

(1) Jonny Manziel fell to 26th in the lap of Cleveland Browns.

といったような用例からだ。このフォールは、descend や、分析的 go down にないような自由落下の意味含んでいる、というものだ。

だいたい、多義に関して木曜日の3年生の小さなゼミでした話は以下の通りである。

おっとめんどくさくなってきた。公開する意義があるのか?w

乳乳母と抱き乳母

というのがあるらしい。西鶴の西鶴諸国ばなしというのを読んでいる。よく心理学の教科書にでてくる猿の実験をほうふつとする。

お祭り

「後の祭り」ということを考えていた。「後の祭り」って面白いよな。「祭りの後」のことじゃないか?後夜祭みたいな感じじゃないよな。

ところで近所の神社の祭りにいった。ぼんやりとした光の中に水のきらめきと金魚やら透明な柔らかいビー玉様のボールやらが写っている写真をアップしたいところだがあいにく写真をとっていない。

さまよえる私の想いども

ツイッター書いてる感じでこっちに書こうと思う。こっちだったらどんどん付け加えられるしな。

2014年5月22日木曜日

quip

Obama honors 'Hawks, quips on Lynch's 'media policy

quip
n.
1. A clever, witty remark often prompted by the occasion.
2. A clever, often sarcastic remark; a gibe. See Synonyms at joke.
3. A petty distinction or objection; a quibble.
4. Something curious or odd.
intr.v. quippedquip·pingquips
To make quips or a quip.

ホームラン打っちゃってます?

このタイトルの下書きがあったのだがなんのことだかわからない。適当に
非常に無責任な感じのちょっとイラッとする人が使っている気がする。年齢的には20代後半まで?チヤラい、ネクタイを緩めたセールスマンとか?

words

Josh Gordon's status creates fantasy conundrum



Conundrum may refer to:
  • riddle whose answer is or involves a pun or unexpected twist
  • logical postulation that evades resolution, an intricate and difficult problem


I also encountered a term "mulled" in Goffman's writing. 

mull
mull 1  (mŭl)
tr.v. mulledmull·ingmulls
To heat and spice (wine, for example).

[Origin unknown.]

mull 2  (mŭl)
v. mulledmull·ingmulls
v.tr.
To go over extensively in the mind; ponder.
v.intr.
To ruminate; ponder: mull over a plan.

[Probably Middle English mollen, mullento moisten, crumble; see moil.]


2014年4月30日水曜日

4/29

自衛隊駐屯所には日の丸が立っていた。僕は、今日が祝日であることにうっすらと思い当たった。そこからかつての天皇記念日であったことに思い至るまでにはまた少し時間がかかった。横目に映る若い自衛官の表情は見えない。彼はどのような想いでこの門を守っているのだろうか
潮干狩りは不成功といってよかった。3年前と同じように、長い堤防の道を渡る。3年前と違うのは家族ときていることと、たくさんの人がそこに集っていたことだ。小さな息子とともに雨の吹きすさぶ浜へ出る。3年前は緑がまばゆい残暑の8月だった。暑さの代わりに雨が降り注いでいる。

できるだけ沖を目指して歩く。岸に近いところは砂利で、誰かが掘った後が遺跡のように卍に似た奇妙な模様を描いている。ここは驚くほど遠浅で、くるぶしに浸るほどの水までの浅瀬が見渡す限り続く。妻のベージュの折りたたみ傘を差した7歳が駆け足で追ってくるのを背中で確かめながら沖合の砂地を目指す。

泥色をした大きな砂地はひとつの潜水艦のようで、手前では小さな子供や祖父母もいるように見える1つの家族が四角い穴を囲んで笑いながら穴を掘っている。この雨の中ではやや奇異にも見える光景だった。一つの穴を掘る。子供が熊手を使う。祖父が笑う。家族が笑う。そこには祖母の姿はないように思えた。

混濁した泥水が流れくる液体に透明になっていく。どこからともなくマーブルのような粒が浮かび上がる。砂利によく似たとりどりの色をしてきれいな格子模様の刻印がついたアサリのようではない。つるんとして色もクリームと焦げ茶のハマグリに似ている。

浜に向かった時点からはすでに30分が経過し、身体が冷えてどうしようもない。幼い子供には過酷すぎる気がする。戦果は網に少数。家に帰って数えたら16だった。

混濁した意識にビールが流れ込む。自衛隊とも日の丸とも関係のない一日でよかった。いつまでも潮干狩りを楽しみにできるような世界だったらいいなと思う。

2014年4月11日金曜日

プリミティヴ

僕は再びサンフランシスコの長いトンネルの前にいる。立体交差に思いを這わせるとき、乳房の生えた羽の胸像のあるパリの街並みが浮かび上がる。疲れる散歩を無理に続けていたいつか。ショーウィンドウの籐の椅子を見て、どうして人間がプリミティヴなデザインに癒やされるかを考えた。例えばざっくりとした麻のセーター。それが例えばワイシャツと異なるのは行為可能性であるという結論に至った。僕は籐の椅子を作る身体運動を想像できる。それが自由を保証し、安らぎとなるのだ。

2014年3月5日水曜日

ソニー

ソニーが御殿山を去るという。新入社員のとき研修を受けた場所、3年目で品川駅前勤務になった際、品川駅から山手線の裏側を取って五反田に何度も往復した道、そして6年目に修士号を取ってから1年半勤めていた離れのような小さなビル。退職する際だろうか、心もとない気持ちを抱きながら下った本社ビルの裏側のアスファルトの駐車場。肌寒さと柿の木が思い出の中にある。そういったビル群の最後が他社の手にわたる。もちろん、その時に戻ることはどの道できないのだが、そこがソニーのものでなくなることが、なにか、家を失った子供のような気持ちにさせる。

2014年2月24日月曜日

2014年2月23日

ぼそぼそとした口ぶり。床は小麦に似た有機的な黄金色で、その中に蛍光灯が白い光沢を落とす。軋み立てる重い扉の体育館はこの地域で二番目にできた小学校の年輪を示している。隣の咳が気になる。昔は校長をしていたという白髪の人物が会計の話をしている。僕は7歳の息子の稽古を見るでもなく、パソコンに向かっている。今日は息子とサッカーをした。息子とスポーツをするなんて何ヶ月ぶりだろうか。冬の寂れた公園で小さい子らに混じって二人でボールを蹴り合う。昔買った小さな玩具のゴールを息子は大事にしていて、それに蹴り込むゲームを始める。僕は左膝が相変わらず調子が悪く、左足で蹴ろうとした遠心力で膝の内側の骨が痛んだ。
 今年に入って二つの論文を仕上げた。いつかのようなグルーヴを少しずつ取り戻してきたような気がする。グルーヴとは、二十年ほど前、僕がアメリカに行く前に友達が読んでいたタイトルで覚えた単語だ。How she got her groove back (彼女がグルーヴを取り戻したわけ)とかいったタイトルだったように思う。そういえば、先週は一生懸命その論文を書き上げようとしてたように思う。思い出した、日曜日の深夜が締切です、と阿部さんに言われ、この剣道の練習を見守った後、研究室に戻り、早朝7時頃、もうすぐできあがりますから送ります、と伝えるメールを送ったのだった。
 これから、もう一度、ことば工学研究会の顛末を書きたいと思うけれども、それが終わってから今日までの印象を記述してからにしようかと思う。
 
 サンフランシスコの中華街の映像が浮かび上がる。倉庫様の赤煉瓦の壁に書かれた大きなグラフィティ。マルチンルーサーキングまたは私の知らない誰か。または私がすでに忘れてしまった映像。覚えているのは、その大きなグラフィティの向こうに青い空があり、その空が限りなく高かったことだ。
 
 その鮮度のよい鯛の尖った未来とビロードのような赤茶けた肌の間に光る青いシアンブルー。サンフランシスコの中高い空の元、暗い魚屋の氷の上に僕の心はいま大きな鯛を置いたのだがどうもそれは煉瓦と空の対比が呼び起こしたものだったらしい。

入り組んだ空中都市。長い煉瓦のトンネルの上を走る道路。入る場所でその高さが変わり、間違った道に入り込んでしまうのととてつもない坂道を登るはめになる危険な都市。入り組んだその構造はパリのムフタール通りを下がった当たりの風景と重なるのだが、そこから肌に染みいる色は違う。パリは石橋であることが一つ。その他には空のだろうか。サンフランシスコの空は青く、長いトンネルの隠微さが対照的に強調される。

 記憶が入り込んしまった。スエーデンであった友達からフェイスブックの申請をもらい、韓国の研究者にこの三月に合いにいき、来年の10月くらいにはバークレーに行きたいなぁ、と考えていたからだろうか。前にサンフランシスコの方に行ったのは2007年の7月、パリに在外研究にいっていた時だったろうか。いやその後、バークレーで国際認知言語学会(International Cognitive Linguistic Conference:ICLC)が行われるはずだった年に短期間行っているはず。昨年のICLCがカナダのUBC(ブリティッシュ・コロンビア大学)2013年。3年毎だからその前が2010年。これが中国、その前が2007? いや、計算が合わない。2年に1回に違いない。2013がカナダ、2011が中国、2009がバークレーであるはずだった年、2007がポーランドのクラクフ、2005年が韓国、2003年が?どこかまでは3年に1回だったのか。確か最初に行った国際認知言語学会はアムステルダム、こちらは1997年だったはずだ。どちらかという傷心旅行に近いものであった。


そうか、今日ゆったりしていて、家で料理ばかりをしていて、昨日は、千葉から帰って大学院入試の面接をしていたのであった。つまり、ことば工学からここまで、ほとんど語るべきことをしていない。

2014年2月22日


羽田に向かうモノレールの中で、黒のジャンパーコートに大き黒めがね、帽子の男がいた。凶兆のようだ。管制塔は美しい。東京から千葉に向かう際、そして戻る際に見たスカイツリーのイメージと重なる。唯一の権力であり、コントロールタワーである。スカイツリーというネーミングも環境に優しいいいネーミングだったと思う。
 羽田のてんやでは、隣の若い男女の会話が耳に入ってきた。いや、男女と思っていたが一人はとても声の高い男のようだ。こちらから見えるその男の子は眼鏡をかけて黄色い顔をしている。よく聴いていると確かに男の声だが、高いところになると女と区別がつかなくなる。もう一人はだいぶん落ち着いた低い声だ。アキさんという人の話をしている。アキさん目当てとかアキさんはあんなだから誰とでも仲がよくなるとか話している。アキさんが男か女かわからない。反対側を見るとまったく聞こえてなかったがこちらは太った店員の制服の女性とジャージをきた女性だ。見ていてもあまり話の内容が頭に入ってこない。僕は運良く4人掛けの席に案内されたので両横がそれぞれ二人連れなのだが、人間って結構、話すのが好きなんだなと思った。
 院の口頭試問と院入試の間を縫って人口知能学会ことば工学研究会で発表をしてきた。今回は、KDDI研究所の鈴木雅巳さん、モンゴル文化教育大学のアシガイ・デルゲルマーさんとの共著だ。内容はThe Catcher in The Ryeを取り上げてホールデンに自閉症あるいはアスベルガー症候群の傾向があってメタファーの生成と理解が困難なのだという説を提示したのだ。


2014年2月13日木曜日

味覚の言語

昨日の日経に面白い記事が載っていた。味覚の言語という題で作家である宮内悠介という人が書いたものだ。要旨をまとめると以下のようになる。

自分はアメリカに育ちハンバーガーをうまいと思うようにあまり味に固執しない。たまに飲みにいくと椎茸や銀杏を食べる。味覚も言語のようなものではないか、と思ったきっかけはインドで半年くらい暮らしたときだった。毎日のようにカレーを食べたが、カレーが美味いかか不味いか以前に、美味いか不味いかが判然としなかっったのだ。
つまり、食の解釈には文法があり、その文法がその文化にいないとわからない。

味覚は制度化されやすい。思い込みや雰囲気、皿の模様1つで味は変わる。「通はこれを食べるものだ」と思い込むことができればどんなものでもうまく感じられる。

その先には、「物語」化した食がある。

これからはさらに「物語」化が進むかもしれない。それは案外豊かなものかもしれない。

***
これに対して以下のように考える。

味覚は制度化されやすい。→同意

カレーが美味い、不味いではなく、美味いか不味いかの尺度を持たないことに愕然とする → フレームの当てはまらない、前提がなりたたない、という非常に興味深い例で慧眼。

物語的味覚が豊かなもの → 実際の味覚とはそのようなものなりがちだという警鐘として価値があるが、私達はそれをつきぬけなければ行けないし、突き抜けられると思う。そのような物語された味音痴な味覚が豊かなものであるわけがない。不同意。



私はブフ・ブギニョンを作ったとき最後に蜂蜜をだらーっと垂らしたのだ。家族がその味を好むであろうことを考えて。だからといってもとの味は本物だしそれがあるからおいしく食べられるのだと思う。昔友達だったフランス人は日本の料理が甘い、甘すぎると不満を述べていた。調理のローカル化というのはもちろんあるだろうが、いかによい物語があっても美味しくないものを美味しいとはおもはないだろう。秋元さん流にいえば、ハンバーガーにはイノシン酸が入っていて、「おいしい」のだ。ただ、グルタミン酸に制度化されるか、イノシン酸に制度化されるか、その両方に制度化されるかは本当に言語と同様に子供の食生活の影響は大きいだろう。インドのカレーがどのようなうまみ成分でなりたっているかはよくわからない。

ゆめ 24

 次には何食べようか。ここは田舎(ひな)だから定番的な寿司以外にないしなぁ。ガスエビとか、珍しいものはないんだよなぁ。壁にはよくあるポスターが貼られていてebi (shrimp) とか書かれている。さっきは、赤身を頼んだ。あぁ、同じもの頼んだなぁと思ったから最初は中トロでも頼んだんだろう。赤身は鰹のように皮がついていてしかも巨人の拳ほどある大きな塊で、右下から左上に向かって遠心的に扇を描いている。そう、僕は扉から一番奥のカウンターのコの時の右下の端にストーブを背にして座っている。右隣にはコミヤマがいる。高校の時の同級生だ。土間になっているカウンターの奥にその右手の奥には座敷があるようだが、人の気配はない。
 僕はエビを頼んだ。ボタンエビはここでは高いだろうし、かといって茹でたエビが食べたいわけじゃない。さっき、お手ふきかお茶をもらったときに目を合わせたおばちゃんだ。お店の人にはきちんと対応しておくといいことがあるかもしれない。どうします?エビの種類で悩んでいるときに、別の店員だろう、テーブルの上に3つのショットを置いた。店員のいっていることが要領を得ない。コミヤマの斜め隣の、カウンターの長い方の左端に外国人の男がどっしりと腰をかけた。俺たち2人を見ている。敵意のある表情ではないが、セルロイドの眼鏡をかけて、クルーカットの50代に思われる男性だ。ベージュのナイロンの10cmほど刻みで横方向にスティッチが入っているダウンのジャンパーを着ている。
 ショットにはコーラ様の液体が入っていて泡沫がはじけている。それが3つある。鈍角に3つのグラスが置かれていてその左側のを俺は取った。匂いを嗅ぐ。特にこれといった匂いはない。男がおもむろにグラスを取ったので、お前のはこれだろ、という風にコミヤマに目線を送る。おごる、といっているはずなのだろうが、そのへんがよくわからない。男の顔が変わっている。眼鏡はなく、やや悪い顔色に無精ひげを生やしてVネックのニットのセーターを着ている。あちらを向いている男に対して、コミヤマは What are you guys doing? と、聞いている。へえ、こいつ英語使えるんだ、とおもうとともに、一人しかいないのに、guysはおかしいだろ、と考えている。男はこちらショットをつきだし、俺たち2人に笑顔を送ってくる。グラスに口をつけてみるが、ショットなのにアルコールの味がしない。気の抜けたコーラのようだ。なにか、前に使ったときから残ったミルクのような白い濁りが薄く縦にグラスの中に浮かんでいる。男はいつのまにか隣に座っていた外人の女を首に手を回し、ぐっと引きよせている。
 女は濃い化粧でつやのあるグロスをして年齢はかなり上だろう。髪を金髪に染め短くシャギーにしている。斜め向かいの日本人にそのフェーシャルがいかによいか、ということを話している。その子は美容部員をしているかなにかで、顔は四角く、あごがやや尖っていて目が大きかった。三十代半ばだろうか。

2014年2月12日水曜日

関西認知言語研究会 1/下旬

2件の発表があった。

物語世界の構築と指示詞
杉山さやかさん(京都大学大学院) 

「あの」「その」「この」が物語の中でどのような意味を持つかを芥川龍之介作『蜘蛛の糸』とその翻訳を題材にして検討するもの。杉山さんはたいへん優秀な方と思っており、視点を中心とした物語の分析にはとても注目している。今回はややフォーカスが違ったためか、わかりにくいところがあった。指示詞の典型的意味のこれまでの研究のサマリーを明確にだして欲しい。でていたこととは思うが分野に対するこちらの理解が不十分ではっきりと取れなかった。さらに、説明要素にこの過去の日本語学における指示詞の研究以外に、2. 視点の心理学的研究 3. ジュネットの理論を使用している。ここらへんの説明は時間の都合でほぼ割愛されたが、全体の展開として、どのデータをどの理論で分析するのか、意図を明示して欲しい。たとえば、3つの理論があるのなら、それぞれの理論の関係(どのように整合的に収まるのか、または不整合があるならその解消、または今回のデータによって比較など)を事前に明示して欲しいかな。


最近、自分はたいへん批判的になっていてあまり人が寄ってきてくれない。若い人に他人の振りをして伝えておく。一般に自分のことを批判してくれる人の言葉にはよく耳を傾けるべき。その人の意見をよく聞いて、どこにひっかかっているか、自分の意見とどこが違うかを明らかにすることによって自分の理論は驚くほど強くなる。まあ、相手も聞いても分からないと思う人に対しては言わないでしょう。そこは成長するこの上ない、いい機会なので。ぜひ納得がいくまで議論したらいいと思う。そんなときにプライドが邪魔してそこから離れていく人をよく見る。大変、損をしていると思うのだ。


擬音語は「聞く」音?「見る」音?―日英両言語における実験的調査を中心に―
游韋倫さん(神戸大学大学院)

擬音語を日中で比較し実験的に裏付けた発表。大変よくできていた。実験設定も多面的にできていて主張を十分裏付けていたと思う。詳細はご本人の発表のある機会にぜひ聞いてみて下さい。
今回あげられたRQを採録する。

・検討内容 ①視聴覚刺激の有無のよる差異
        ②擬音語の意味の特定性
        ③擬音語の使用の慣習性

①は例えば
音声刺激 (「ぱきっ」という音)
視覚刺激 (「箸を折る画像」または「スイッチを押す画像」)

②は具体的イメージが浮かぶかどうか(「ばきっ」あるいは「ぱちっ」 と特定のイメージ)
③どれだけ擬音語が恣意的かまたは有契的か。(「ばきっ」という音と実際の音がどれだけ似ているか、違っているか。




昭和

台湾から義理の姉が帰ってきている。堺にビッグバンという子供向けの屋内遊戯館のようなものがあるのでそこへいくことになった。平たい円盤型の目立つ建物でテーマは宇宙のようだ。1階には売店があり、2階は宇宙をテーマにしたお絵かきなど小さな子供用の遊戯場、3階は恐竜を配したアスレチック中心、4階が「おもちゃスペースシップ」となっている。しかし、そこのある蛇行したトンネル状の通路の先は、昭和の世界だった。














定食屋がある。郵便局がある。駄菓子屋がある。銭湯がある。パンフレットによれば30年代の昭和を再現したという。電信柱の質感、看板、のれん、民家の表札など、かなり精巧に作り込まれていてリアルだ。ブリキで作られて昔の製薬メーカーの広告なども貼られている。子供と遊んだ後、一人でもう一度、その界隈を回ってみた。町医者、昭和34年にできたという名神高速道路の色あせた白黒写真。解像度の悪い「白黒」テレビ(よく見るとやや青みがかっている)。押し潰されたようなラジオ放送様の音声から、当時の説明が流れる。

昭和。そしてその時にはまだ母は生きていた。そう思うと急にあの時代に戻れることができたらどれほど幸せかと考えた。すべてが悠久のように感じられた時代。そういえば子供の手遊びの場に改造された医院の木製の長椅子に、動くともなく老人が座っていた。今私は同じ顔をしているだろう。

たこ焼き屋の隣にある真鍮でできたノブを引いてみた。開くことがないことがわかっていながら、もしその扉が開き、暗黒が拡がっていたら、私は迷わず足を踏み出すかもしれない。

2014年2月7日金曜日

プレーオフ総括

Divisional Round 以下は、4勝、1勝-1敗 1勝 でトータルの勝敗予測は 6勝1敗であった。

最後のスーパーボウルは五分五分か、デンバーやや優位の報道が強かったのでよく当てたというべきところだろう。最初の4勝はどれもガチの本命だったのであまり自慢にならない。

落としたのはDenver-NE戦であった。最初からデンバーはすいすいとコマを進めて得点を重ね、Bradyは同じようにできずに敗北した。下馬評は明らかにデンバー優位。その通りになった。私は強力な意志の力を持つBradyの力と大勝負に弱いマニングの差でNEが勝つと考えていた。レシーバー不足は否めなかったようだ。

最終戦は、43-8という意外な大差。

虎とライオンの戦いは意外にあっけなく決まるものと思っていたが、どうしてここまで大差がついたか、どうしてデンバーが自分の試合をさせてもらえなかったか、考えた。

確かにスーパーボウルはDが制するという神話は健在だ。パスは緊張でブレがちになるからどうしてもOは思ったような力が発揮できない。

それにしても、デンバーとマニングは「何一つ」させてもらえなかった。それはどうしてだろう。あれほどどのチーム相手でも敵陣を自在に切り開いてパスを通してきたオフェンスであったのに。

最初、強力な前面(Dライン)でマニングにプレッシャーをかけたからだ、と考えた。

しかし同じことをうちのチームがやっても同じ結果にならないだろうと思い至った。

なぜなら、マニングは早く短いパスを通してフィールドをきざんでいくからだ。

結局、全選手が、デンバーのそれぞれの相手と同等かそれより強かった。シアトルは man-to-man (一人一人の力)でデンバーを下したのだ。

考えれば、マニングは究極のシステムQBである。通常、コーチが相手Dのシステムの不備を探し出してそこを突くように作戦を立てる。チーム全体の中での個々の配置を操作することによって相手に打ち勝つ。それがシステムである。マニングは自分でそれをやる。現場にいて、現場から相手Dのシステムに対して自分でチーム全体を調節して対応する。現場でそれをやるから、コーチからの指示を受けるよりもずっとスピードが速い。だからシステムの総合力ではどうしてもデンバーに勝てない。

ところが、システムは他においても、シアトルは個人技でデンバーを上回っていたのである。その分、システムに期待する度合いが低い。システム対システムの今日のNFLにあって、システムでデンバーに勝てるチームはなかった(同様に優れた頭脳を持つコルツ、NEを除いては)。これほど大差がついたのは、シアトルが野生のチームで、そのDがシステムに基づいていないからだ。

実は、デンバーはプレシーズンにシアトルに40-10で負けている。当時、デンバーはシアトルに勝てなかったし、今回もほぼ同様のスコアとなった。このままいけば、デンバーはシアトルにまったく勝てないだろう。デンバーが対戦してきた相手と、シアトルは種類が全く異なるチームなのである。


2014年2月1日土曜日

語用論学会報告

ずいぶん遅くなったが、語用論学会の大会プログラムが見つかったので、さらっと私の見た発表について述べておきたい。

まず、12/7 10:00~ 西阪仰先生の会話分析チュートリアルに参加させていただきたいへん勉強になった。日常の会話をつぶさに見ることによってその中で人間がやっている押したり引いたり寄り添ったり突き放したり持ち上げたり下げたり叩いたり蹴ったりなでたりがよく面白かった。(人間関係は距離と力のメタファーになるなぁ)
追記:なでてほしい、っておねだりしたり、叩くんじゃねえぞ、って事前に威嚇したり。(それもお約束だったり)

推理小説の文体分析―関連性理論の観点からー 中村秩祥子(神戸大学大学院)
推理小説といった「作られた」会話を関連性理論などの言語理論を使用して分析することができることがわかった。面白かった。

Pragmatic development of Japanese learners: A ten-month's longitudinal study of request.
BEUCKMANN, Fusako (The University of Tokyo)
日本語学習者の「お願い」の仕方がどう変わったか。統計を使用しており、興味深い研究であった。(ごめん、時間がたっていて詳細なことまで思い出せないんだ)

The building blocks of Tone-of-voice CAMPANA, Mark (Kobe City of Foreign Studies)
声色、口調とその伝える効果というたいへん興味深い対象を取り扱っていたが論証がなかった。

くびき語法の再考察ーメタファー理論の観点からー 望月雄大(関西大学大学院)
オーディエンスがたくさんきてよかったんじゃないの?りっぱに発表できてたし。プレッシャーかけないように先生は終始下を向いていました。まあ、メタファー理論、どこにでてきましたっけ、って反応は妥当でしたが。

論証的ポリフォニー理論による緩徐法・婉曲語法の分析 大久保朝憲(関西大学)
同僚、大久保さんのご発表。緩徐法というレトリックがあることをここで初めて知りました。デュクロ理論が認知や他の理論でどのように解釈されるのか興味深い。

ポスター
対話におけるメタファーの連鎖パターンー対話相手の反応に現れるメタファーに注目してー
杉本巧(広島国際大学)
お顔を拝見したらどこかで話したことがあった。メタファーの会話分析は今後非常に発展性のある領域と思います。





2014年1月31日金曜日

スピードトレーニングのために読むことに決めた本

胸がいたい。多分、胃だと思うが。がんばりすぎか。

朝のスピードトレーニング再開

日本語 長野まゆみ 『天体会議』
英語  Goffman Frame Analysis
古文  『井原西鶴集(2)』小学館日本古典文学全集

ポットと情動

ポットでウーロン茶を沸かして飲んでいるのだがちょっとお湯を入れすぎるとすぐこぼれてしまうのだ。

関係ないが、「たかが」と「分際で」や「のくせに」の共起が気になる。

関係ないことはなくて、「ちょっと」と「すぐ」の共起がありそうなことから思い出したのだ。

affectively associated constructions とでも名づけようか。

1月31日

 夜が明けようとしている。山中にラインでメッセージを送ってやっとパソコンに戻れた。奈良の夕陽、山中達との10年前のフィリピンパブの夜、東浩紀が交錯している。山中とあったのはそのときが20年ぶりで、それからまた10年が立っている。「山中のボトルだいぶん飲んじゃったの気にしてる。また飲みましょう。」と打った昨夜のメッセージの返事に「まだそんなこと気にしてるの!?かまへんよ。(スマイルマーク)また逢いたいですね!」とあった。山中は甘いマスクで気の弱いちょっとシャイな中学生だったのに10年前にあったときはよくしゃべる気のいいちょっとやり手そうなオジサンになっていた。離婚を経験し、フィリピン人の女の子とつきあっており、そのパブは彼女と母、妹の家族経営だ。山中はちょっとオーナーのような髪結いの亭主のような奇妙な位置づけだ。それが10年前のことだから今はどうなっているのかわからない。その雰囲気は居心地が悪いわけではない。

 光州に行くことを企画している。研究仲間がいるからだが、韓国はソウルと釜山にしかいったことがない。見知らぬ韓国にいくことはちょっと興味がある。ましてや百済の土地である。歴史に思いをはせることができるだろうか。ソウル経由らしいが、釜山から電車でいくことはできるだろうか。海岸沿いを通っていくとはできるのだろうか。

 初めて韓国にいったとき、僕は船を利用した。小倉、福岡を経て、小倉に戻り、フェリーで渡った。僕は大学院に入り直して、修士論文を終えた時だった。中国人の女の子と友達になり、たくさんの旅客の中で隣合わせに眠った。その子の寝顔を見てから甲板に昇った。船は対馬で長い時間停泊する。夜が明けようとしていた。日の出を確認してから船底にもどって毛布にまたもぐり込んだ。朝、目が覚めたとき、朝日を見たよ、といったら、一緒にいこうっていってたのに、と口をとがらせた。
 朝7時頃、釜山の港についたとき、多くの人が韓国語を話しはじめた。韓国のテレビがついていた。日本人だと思っていた多くの人が現地の人だった。船の中で僕は外国人に変わった。まわりのみんなは外国人でなくなったのだった。

 船を出て韓国人の女友達がいる、といっていたその子とさよならをした。それが僕の韓国との出会いだった。そこから、電車でソウルに上り、飛行機に載ってパリにいき、マドリッド、バレンシア、バルセロナと行って、また逆順にマドリッド、パリ、ソウルと軽油して日本に戻ることになる。行き来の中で非対称なのは、大阪―九州―釜山―ソウルの電車とフェリーの旅の部分だけだ。