2014年5月31日土曜日

5/31

 暑い。夕刻になってもその暑さが変わらず、夏の夜のような印象を受ける。実は、念頭の今年の目標に、莫大な数字の文書を書くことを決めたことを思い出した。娘の今年の目標は、食事のマナーを良くする、息子の今年の目標はパパとママのいうことをよく聞くであった。私の枚数は覚えていないのだが、1000枚といった数字ではなかった。原稿用紙3000枚かと思ったが、それでもまだ足りない気がする。多分、一万枚だったのではないかと思う。それだと、考えを止めえたり、文書を練ったりする時間はまったくないのだが、そういう意図で考えたのだろう。描写がしたいのだが、書く中で描写を練りこんでいくしかないか。
 そう、概念的な文書と知覚的な文書と異なる文章としてとらえている。そしてその間を行き来することが人間らしい文章だと考えている。しかし、このパソコンの電池は多分、今日の文章を書くほど持たないだろう。
 引き続き、文とは情緒と情報の両方を含むものとしてとらえている。情緒はいいね→欲しい→くれよ→(もぎ取る)というように、評価性ー感情ー言語行為(この場合は依頼/命令)-行為という連続を呼び起こすものとしてとらえている。情緒と情報の2文は、モダリティと命題の二分法と対応する。(益岡氏を思い出す。たしか今頃ハワイにサバティカルにいるはず!)

 本日は広島国際大学の杉本さんと打ち合わせで昼食を食べ、その後大阪教育大学の串田先生の主催する会話分析研究会へ一部参加、その後家族と夕食を取る。その前は息子の授業参観。
 テラスにはジャガイモと思しき同じ苗がたくさんの並んでいる。いや、花が咲いていたから茄子を栽培しているのか。白いプレートにひらがなでかかれた文字。いや、「山ざき」など、すでに習った漢字は使用されている。焚火のにおいがする。その方向を見ると琵琶と思しき、黄色い見が見える。いや遠いからでもしかしたら柑橘類かもしれない。
 杉本さんとは会話分析のメタファーの話をしている。詳細は割愛するが、たいへん勉強になる。意識と無意識というのがこれからのメタファー研究には重要である気がする。
  会話分析の研究会ではイリノイ大学の林誠君が来ていた。久しぶりだったがまったく(!)変わっていなかった。有名になったねえ、出世したねえ、というのが伝えなければならないことだったが、最初に話したのは、何年振り?ということで、私の口をついて出たのは24年ぶりということだった。よく計算してみると20年ぶり程度で、最初に会ってから足掛け23年ということになろう。
 会話分析の研究会でいつも思うのは、最初は変哲のない、むしろなんの面白みもない取るに足らないと思われる話が、2~3時間話したあとにはすごく面白い、これほどエキサイティングなものはない、と思えるほどの内容になることだ。その人たちの心、二人の(参加者の)間のドラマ、そういったものを想像するときりがなく、尽きることはないし、その人たちにも話を聞いてみたくなる。もしかしてそれはこちらがそれらの人々のどんどんドラマを読み込んでいってしまうからかもしれない。それはそれですごいことかもしれない。

 過去のイメージの断片が浮かんでくるがどこかは思い浮かばない。輝く線路。輝くアスファルト。踏切の向こう。四日市の西側、工業団地の中。
 そこにある屋内市民プールで僕の中でクリシェになった次のような思考を考えていた。こんなにたくさんの人がいて、それらの人はそれぞれにたくさんのことを考えているはずなのに、それは見えなくて静かな、当たり前の喧騒だけが流れている。水しぶきの音、嬌声、頑なにラップを続ける規則正しいビート。みんなの思考が目に見えたらこのプールはどれだけいっぱいになってしまうだろうか。

 昨日は、四日市に行って実家の仕事をしていた。その詳細は割愛する。木曜日は授業。3年生のゼミの一人がKAZUO ISHIGUROの翻訳をやっている。ここで披露するほどの話ではないが(といってから考え直して披露することにする、ネタバレ注意)。彼女によれば、この本はNever Let Me Goという作品らしい(彼女には恥ずかしていえないのだが久しぶりに英語の本を読んでみようと思いアマゾンで7~8作品注文した)。舞台は近未来で、特殊な設定があり、特殊な設定に合わせたcarerという特殊な職業を今まさにやめようとしている人の回顧伝である。
 そこにはその人の出身のヘイルシャルムという「学校」が出てくる。そのヘイルシャルムの評判はたいへんなもので、多くの人がそれを嫉妬して憎み、多くの人が羨望する。まず、ここまでで、近未来的パラレルワールド(うちらの用語でいえばメンタルスペース)の設定、そして、その内容が分からないが言葉が独り歩きしている「聖域」としてのヘイルシャルムの描き方が(うちら、というより私の言葉でいえば評価性、に関連すると思うが、評価性がミスティシズムにまで高められた感じか)すごい。先ほどの言葉でいえば、評価性は行為の直接つながる/裏返しである。どうしても行きたいところ、どうしても手に入れたいもの。願い、祈り、魔術。
 KAZUO ISHIGUROにユニークなのではないかと推察するのだが、その「聖域」性を示すために、作者はある語り手のある「患者」がヘイルシャルムのことを聞きたがり、それがどうも、語り手の brain を pick することによって、ひとつひとつのエピソードや描写を自分のものとして体感して、あたかも彼女(語り手)の記憶を彼(患者)自身の記憶にしてしまいたいと考えているようであることを示した点が面白い。ことばとしての情報。それをひとつひとつ視覚、触覚、身体情報に置き換えていく。そして、ヘイルシャルム出身という特権・stigma である記号を自分に纏いたいと思っている、自分に纏うとしている点である。
 熊谷晋一郎さんに、「熊谷さんの話には権力や暴力の話とつながってくるから面白いですよね」とと伝え、「暴力の究極の形は身体的接触ですものね」と伝えた(暴力の究極の形とともに愛の究極的形も身体的接触であるが)のだが、ゴフマンの社会学的研究にもstigmaについての研究がある通りそういったものがかかわってくるのだと思っている。

森本さんがブラインドを上げて見せた関西学院梅田サテライトの景色を思い出した。観覧車や初夏の傾いた光に照らされたうつろやかな梅田の空がきれいだった。いいなあ。

 

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