2014年2月13日木曜日

味覚の言語

昨日の日経に面白い記事が載っていた。味覚の言語という題で作家である宮内悠介という人が書いたものだ。要旨をまとめると以下のようになる。

自分はアメリカに育ちハンバーガーをうまいと思うようにあまり味に固執しない。たまに飲みにいくと椎茸や銀杏を食べる。味覚も言語のようなものではないか、と思ったきっかけはインドで半年くらい暮らしたときだった。毎日のようにカレーを食べたが、カレーが美味いかか不味いか以前に、美味いか不味いかが判然としなかっったのだ。
つまり、食の解釈には文法があり、その文法がその文化にいないとわからない。

味覚は制度化されやすい。思い込みや雰囲気、皿の模様1つで味は変わる。「通はこれを食べるものだ」と思い込むことができればどんなものでもうまく感じられる。

その先には、「物語」化した食がある。

これからはさらに「物語」化が進むかもしれない。それは案外豊かなものかもしれない。

***
これに対して以下のように考える。

味覚は制度化されやすい。→同意

カレーが美味い、不味いではなく、美味いか不味いかの尺度を持たないことに愕然とする → フレームの当てはまらない、前提がなりたたない、という非常に興味深い例で慧眼。

物語的味覚が豊かなもの → 実際の味覚とはそのようなものなりがちだという警鐘として価値があるが、私達はそれをつきぬけなければ行けないし、突き抜けられると思う。そのような物語された味音痴な味覚が豊かなものであるわけがない。不同意。



私はブフ・ブギニョンを作ったとき最後に蜂蜜をだらーっと垂らしたのだ。家族がその味を好むであろうことを考えて。だからといってもとの味は本物だしそれがあるからおいしく食べられるのだと思う。昔友達だったフランス人は日本の料理が甘い、甘すぎると不満を述べていた。調理のローカル化というのはもちろんあるだろうが、いかによい物語があっても美味しくないものを美味しいとはおもはないだろう。秋元さん流にいえば、ハンバーガーにはイノシン酸が入っていて、「おいしい」のだ。ただ、グルタミン酸に制度化されるか、イノシン酸に制度化されるか、その両方に制度化されるかは本当に言語と同様に子供の食生活の影響は大きいだろう。インドのカレーがどのようなうまみ成分でなりたっているかはよくわからない。

0 件のコメント:

コメントを投稿