2014年1月31日金曜日

1月31日

 夜が明けようとしている。山中にラインでメッセージを送ってやっとパソコンに戻れた。奈良の夕陽、山中達との10年前のフィリピンパブの夜、東浩紀が交錯している。山中とあったのはそのときが20年ぶりで、それからまた10年が立っている。「山中のボトルだいぶん飲んじゃったの気にしてる。また飲みましょう。」と打った昨夜のメッセージの返事に「まだそんなこと気にしてるの!?かまへんよ。(スマイルマーク)また逢いたいですね!」とあった。山中は甘いマスクで気の弱いちょっとシャイな中学生だったのに10年前にあったときはよくしゃべる気のいいちょっとやり手そうなオジサンになっていた。離婚を経験し、フィリピン人の女の子とつきあっており、そのパブは彼女と母、妹の家族経営だ。山中はちょっとオーナーのような髪結いの亭主のような奇妙な位置づけだ。それが10年前のことだから今はどうなっているのかわからない。その雰囲気は居心地が悪いわけではない。

 光州に行くことを企画している。研究仲間がいるからだが、韓国はソウルと釜山にしかいったことがない。見知らぬ韓国にいくことはちょっと興味がある。ましてや百済の土地である。歴史に思いをはせることができるだろうか。ソウル経由らしいが、釜山から電車でいくことはできるだろうか。海岸沿いを通っていくとはできるのだろうか。

 初めて韓国にいったとき、僕は船を利用した。小倉、福岡を経て、小倉に戻り、フェリーで渡った。僕は大学院に入り直して、修士論文を終えた時だった。中国人の女の子と友達になり、たくさんの旅客の中で隣合わせに眠った。その子の寝顔を見てから甲板に昇った。船は対馬で長い時間停泊する。夜が明けようとしていた。日の出を確認してから船底にもどって毛布にまたもぐり込んだ。朝、目が覚めたとき、朝日を見たよ、といったら、一緒にいこうっていってたのに、と口をとがらせた。
 朝7時頃、釜山の港についたとき、多くの人が韓国語を話しはじめた。韓国のテレビがついていた。日本人だと思っていた多くの人が現地の人だった。船の中で僕は外国人に変わった。まわりのみんなは外国人でなくなったのだった。

 船を出て韓国人の女友達がいる、といっていたその子とさよならをした。それが僕の韓国との出会いだった。そこから、電車でソウルに上り、飛行機に載ってパリにいき、マドリッド、バレンシア、バルセロナと行って、また逆順にマドリッド、パリ、ソウルと軽油して日本に戻ることになる。行き来の中で非対称なのは、大阪―九州―釜山―ソウルの電車とフェリーの旅の部分だけだ。

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