2014年1月30日木曜日

2014年1月29日

 今日は、もう29日になってしまったのか。今、このファイルをひっぱりだして日付を自動挿入したところで気がついた。やや早すぎる気がする。やや、おいていかれている感がある。時が僕のことを追い越していっている。山の端に夕陽が沈もうとしている。近鉄線はこれから山間部を抜けていく。

今日、レンタカーが手違いで予約が取れていないことがわかった。そこで、公共交通機関で行くことにしたのだが、昼飯を食べていたら、ちょうどバスが行ってしまっていた。その次は、あと30分後だ。西日野線といって1974年の水害から途中までしか行かなくなったローカル線もあと15分はある。それにそこを降りてもだいぶんあるかなければならない。30分くらいの道のりだろうか。それくらいなら歩けなくはない。なんならここから歩いてみようか。それは無理だろう。1時間半くらいかかるかもしれない。笹川団地という団地方面のバスに乗っても少し歩けば実家につけるのだが、そのバス停は駅の西側にある。重い足取りでそちらに向かったときに、ふと思いついた。レンタサイクルはないのだろうか。高校のときは家から駅まで1年半くらい自転車で通っていた。夏休みの合唱の練習の時には一度、高校まで1時間くらいかけていったこともある。駅ビルの下の商店街に入ると目の前が観光案内所。そこでレンタサイクルがあるところはないでしょうか、と恭しく述べれば、ここです、との回答。すべてがとんとん拍子だ。3000円かけてレンタカーをしていたが、レンタサイクルは100円。笑いが止まらなかった。発想の転換。そうか、自転車を使えばいいんだ。コマ動物病院の友人宅も通り道だ。
リトリーバー、ダックス、猫に囲まれながら半時間程度話をする。なにやら喫茶店を始めるが知り合いの板前さんに入ってもらうことになったとのこと。夜もワインなどを出すという。なにやらよさげな話を聞いたあと、いさんで自転車の旅にでる。高校の時に通った道を通って西日野に出る。そこからは小学校の時通った道だ。亀山製紙といって大正時代の古い建物が今でもそのまま残っている。当時から誰も何にも使っていなかった。木目の塀が白く塗られてコンクリートの支柱の間毎に填められている。それは時を閲して撓んでいる。その撓みを通して向こう側がほぼ透けて見えるのだ。そしてその建物は、当時からさらに50年近く分の撓みを加えたわけだ。
初めて小学校への道を母と練習したことを思い出す。八王子の街を出て、電信電話公社の中継塔が真ん中にあるたんぼ道を終わると室山郵便局があり、そこを左に曲がると民家の細い道になる。そのごつごつした道がパーマ屋の角を曲がって少し行くと急に幅広になる。両脇にヤマコという名前だったと思うが味噌を造る工場があるのだ。体に悪そうな匂いの元に目をやるとむせかえるような熱気を持った薄暗い小屋がある。たくさんの樽が置かれている。ここを通る夢は何度も見たことある。
公民館の門は大きく拡げられていて、ぴかぴかの車が3台も入っていた。洋服屋はいまでも続いており、何を思ったが十数年前に置いたと思われる大きな西洋カボチャが裏向きになって土色に蝕まれていた。
実家に入って窓を開け放つ。トイレにはハチの死骸がまだらに朽ちて転がっている。そのときには、なぜ、そのような虫が大量発生してトイレで死んでいたかは知らなかった。床下にミツバチが巣を作っていたことを知ったのはその1年後だ。
僕は昔、彼女と別れたとき、ヨーグルトを半年くらい冷蔵庫に置きっぱなしにしていたことがあった。その子の好きだったブルーベリーのヨーグルトだった。同じような話を他人からも聞いたことがある。その人もヨーグルトだったように思う。しかし、その人の場合、彼女は別れたのではなかった。死んだのだった。交通事故。即死。それには、彼と喧嘩して、だったか、彼と会うために急いでいて、だったか、そういった因果が絡められていた。人は自分を咎めるためにいろいろなことを考えつくのだ。

ピンクの夕焼けを作っていた太陽はすでに完全に没し、オレンジの空と濃紺の闇の美しいコントラストが現れている。

家からは写真を持ち帰った。母の笑顔が多く写っている。久しく母の顔を見ていない。楽しそうな笑顔。それから、ラムネ菓子の入った思われる細い円柱およびフィルムを入れるのプラスチックとに入った大量の一円玉。さらに硯の欠けた端、貝ボタン、臨時に使うような薄っぺらい金属のスパナなどの小箱にいれられたやはり一円玉と五円玉。ポケットにねじ込んで外に出る。

小学生の時友達だったよっちゃんの家の前を通る。この家に違いない。ところがその家は「加藤」となっていて、よっちゃんの名字とは異なっていた。引っ越したんだろうか。仮にいたとしても、挨拶をしたり昔話をしたりするつもりはなかったが、やや悲しい。

0 件のコメント:

コメントを投稿