2012年3月27日火曜日

テニスバッグの右ポケット、文脈主義、アフォーダンス

写真も載せたい。


載せない方がいいか。

週末は仙台に主観性ワークショップに行ってきた。 楽しかったぁ。楽しかった、というのが感想である。感想をぜひ書きたい。
多分書く暇がないだろう。
あまりに書きたくて、時間がかかってしまってそれだけの書く時間を割く時間がないからである。
こうかくと、書きたくなって書いてしまうかもしれない。我慢我慢。

今日は、僕のテニスのバッグの右ポケットの話である。もう今は変えてしまったが、テニスのバッグの右上のところにスポーツクラブの会員証を入れていた。

テニスのバッグはバックパック型である。Wilsonの黒金のやつで、ネットで一生懸命探して、値段、モノ、デザイン等がぴったり合ったよい買い物である。

ここまで書いた時点で書くのがめんどくさくなってきた。これが私が物書きになれない所以であろう。

なんで、一生懸命書いてみる。

そう、なにより、今まで、変えの服とラケットを別々に持っていたのだが、それがひとつの収まる優れものである。さらに、ラケットは2本まで入る。それがどういう意味を持つのかわからず、無駄な機能と思われるのだが、しょわされてる感満載の2本ラケットのことはさておいて、お気に入りのバッグである。お気に入りのバックだから名前くらいつけてやってもよかろう。ダサいが一応、ウィルソン君(仮称)としておこう。

ウィルソン君(仮称)の魅力的なところはポケットがたくさんあることである。服の部屋(靴の区分けを含む)、ラケットの部屋の上に小さなポケットが上、右、左と3つついている。そこで、左にはシャンプーとリンス、洗顔を、右には会員証を入れることにした(上のポケットにはのちにICレコーダーを入れることにした)。

ところが!会員証をどちらに入れたか、いつも混乱してしまうのである。会員証を出すときにはウィルソン君(仮称)の右肩を外す、というか、私の右肩に掛かっているウィルソン君(仮称)の肩ひもを外すと目の前に来るポケットから左手でジッパーを開けてカードを取り出す。これでOK.この動作はマスターした。ところが、ウィルソン君と直面すると、どちらにいれたかわからなくなる。直面、というのはどっちかわかりにくいが、背中に張り付く方を前面と見立てている。整列型(井上京子参照)の見立てである。後ろに回ってウィルソン君を小熊のように見立てて、後ろから抱きつくようにすると、右手にくるのがカード入れのポケットとうっすらわかるのだが定着しない。ましてや、ロッカーに入って右を向いたり左を向いたしているとまったくわからなくなってしまう。

ここからの結論。自分のアホさ加減はさておいて、行為はグローバルな(絶対的な)参照ではなく、レラティブな(相対的な)参照で行われることが多い。これはJ.J.ギブソンのアフォーダンス、および状況意味論の人たちが言っていることではないか!体とウィルソン君(仮称)との関係によって行為が定義されている。まさに。

これはレカナティの文脈主義と基本的に一緒だ。我々は行為に入るときにそこに至る文脈がある。自分の体、姿勢、向きがすでに文脈である。何をしに来たかも文脈である。

もう一歩進んで、間主観性/共同主観性およびヴィゴツキーの話。違うネタで。

神戸王子動物園の象の檻には、看板に「象がいないときには後ろに回ってください」といったことが書いてあった。これ普通に理解できる。しかし!

象がいないときは、後ろに回っても、いないんじゃないか?

「象がいない」というのは、象がこの世に存在しないという客観主義的な理解ではなく、王子動物園の象に文脈的に限定されているのみならず、「象が見えない」という風に特定の視点から「(視野に)存在しない」に限定されているのである(「お母さん、いる?」の多義は「家に/近辺に」という限定であろうからこの中間に当たろう)。

だから、看板の書き手と読み手は、檻と想定された視座と対象を共有し、その共同主観的文脈/前提の中で、「象がいない」という発話と理解が成立するのであろう。

ウィルソン君(仮称)のような件でも私のように悩んでいる人は全国に数多くいるのかもしれないと思うとちょっとは気が休まるのである。

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