2011年12月20日火曜日

コーパスとメタファー シンポジウム

無事終了しました。以下などは慣用性、身体性、メタファー(領域間写像)の関係を見る好例ではなかろうか。

Two bad calls came to light yesterday. One was throwing the ball on 3rd and 3 with Bush getting traction on the ground. The other was hiring Chuck Bresnahan.

1.came to lightは、come to lightという形で成句。
2.light という語は光の知覚および光にまつわる経験、行為、知識を導きだす。これが身体性。
3.メタファーは光(および視覚)にまつわる知識構造(=領域)を、理解に関する文脈の推論に利用する。具体的には、a~c (~e)といった推論が利用可能になる。

a. 光があたるとモノが見やすくなり、それが何かわかりやすくなる。
b. 光があたると動いたり近づいたり、詳細を見たりしやすい。
c. モノは既に存在していて、光をその存在を知覚可能にするだけである。
d. (場所によって見え方は違う。)
e. (近くにいけば大きく、詳細に見える、遠くからはあまりよく見えない)

例えば、came to lightは成句であって部分の意味はない、といった考え方では、上述のような詳細な推論が可用になることの説明がつかない(唯一の説明は単語と同じように恣意的に覚えることである)。

この例では、ブレズナハンというディフェンスコーチを雇ったのは昨シーズンの終り、つまり1年前のことだが、「事実はすでにあったが、それはあまり目立たなかった。今回の件でみんなが注目するようになった」という意味合いで使用されており、これはまさに、モト領域の推論cがあって始めて可能になる理解である。光に関する推論を利用していると考えるといとも簡単にできることが、慣用句であってメタファーは利用されていないと考えると、このような細かな記述を慣用句に書き込み、かつそれを覚えなければならない。それは大変なことであるし、直感にも反する。

ということで、慣用性とメタファーは独立に機能していると考えることには妥当性があると思う。両者の協業で表現の理解がなりたっている。
メタファー自体は慣用性を超越して(透過して=捨象して)理解すればよい。

一方、慣用性は
(どういった表現が定着するかという)使用依拠
(繰り返し使用されるというイデオロギー性、人間は決まったことしかいわないという社会構成主義のような)社会性、
(それを使うことが多いことはその表現や考え方の歴史的定着を示しているという意味の)文化性
(語や句や文は半分イディオムのような、または単語のようなパターンで構成されているという意味の)構文文法

の文脈で研究すればよい。

ということになろうかと思いましたが。

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